はあるまいか。ぱっと開いてしかも煙れるような女神の少女時代の瞳を、翁は娘の成長に伴う親の悩みに悩まされるほど想い懐しまれて来るのだった。
刀禰《とね》の流れは銀色を帯び、渡って来た、秋鳥も瀬の面《も》に浮ぶようになった。筑波山の夕紫はあかあかとした落日に謫落《たくらく》の紅を増して来た。稲の花の匂いがする。
「山近し、山近し」
山の祖神の翁は今は使い古るしになっているこの言葉を呟いた。そしてやおら立上った。その山は確に葉守《はもり》の神もいそしみ護る豊饒な山に違いない。そしてまた、そこに鎮まる岳神も、嘗《かつ》て姉の福慈の女神と共に、東国へ思い捨てたわが末の息子が成長したものであろうという予感は沁々《しみじみ》とある。それでいてなお急ぐこころは湧き出でない。
河口に湖のようになっている入江の秋水に影を浸《ひた》すその山の紫をもう一度眺め澄してから翁は山に近付いて行った。
山麓《ふもと》の端山の千木《ちぎ》たかしる家へ山の祖神の翁は岳神を訪ねた。
一年は過ぎたが不思議とその日は翁が福慈岳の女神を訪ねたと同じ頃で、この辺の新粟を嘗むる祭の日であった。岳神の家は幄舎《あくしゃ》に宛てられていた。神楽《かぐら》の音が聞えて来る。
山の祖神の予感に違わず、この筑波の岳神は、自分の息子の末の弟だった。
しかし息子は、父親の神の遥々の訪れをそれと知るや、直ちに翁を家の中へ導き入れ、紹介《ひきあわ》せたその妻もろとも下へも置かない歓待に取りかかった。そうしながら祭の儀も如才《じょさい》なく勤めた。
その妻は翁の山占い通り、いささか良人より年長で良人の岳神を引廻し気味だった。彼女はいった。
「ふだん、どんなにか、お父上のことを二人して語り暮らしておりましたことでしょう。有難いことですわ。これで親孝行をさして頂けますわ」
家の中のいちばんよい部屋を翁のために設けて呉れた。この山に生《な》るものの肥えて豊なさまは部屋の中を見廻しただけでも翁にはすぐそれと知れた。
黒木の柱、梁、また壁板の美事さ、結んでいる葛蔓の逞しさ、簀子《すのこ》の竹材の肉の厚さ、翁は見ただけでも目を悦ばした。敷ものの獣の皮の毛は厚く柔かだった。
壁の一側に※[#「木+若」、第3水準1−85−81]机《しもとづくえ》を置き、皿や高坏《たかつき》に、果ものや、乾肉がくさぐさに盛れてある。一甕の酒も備えてある。
狩の慰みにもと長押《なげし》に丸木弓と胡※[#「たけかんむり/録」、第3水準1−89−79]《やなぐい》が用意されてあった。
息子の夫妻は朝夕の間候を怠らず、食事どきの食事はいつも饗宴のような手厚さであった。
息子夫妻のそつ[#「そつ」に傍点]の無い歓待振りはまことに十二分の親孝行に違いなかった。普通にいえばこれで満足すべきであろう。だが父の祖神の翁には物足りないものがあった。
息子夫妻が父の祖神の翁に顔を合すとき、大体話は山の生産の模様、山民の生活の状況、それ等を統《たば》ねて行く岳神としての支配の有様、そのようなものであった。それは誰が聴いても円満で見上げたものであった。山民間に起った面白そうな出来事を噂話のように喋っても呉れた。だが、それだけだった。
親子関係を離れて誰に向っても話せる筋合いの事柄ばかりである。折角、親子がたまにめぐり合うのは、もっと心情に食い込んだ、親子でなければできないという気持の話はないものか。人知れない苦労というものが息子の岳神にはないのか、囁いて力付けて貰ったり、慰めて貰ったりしたい秘密性の話はないのか。
気を付けてみるのに、息子の岳神のこの公的な円満性は、妻に対してでもそうであった。
夫妻は睦《むつまじ》くて仲が良い。良人を引廻し気味に見える才女の姉女房も、良人を立てるところには立派に立てた。岳神の家としての事務の経営は少しの渋滞もなく夫妻共に呼吸は合っている。それでいて何となく夫妻の間に味がない、お人良しでしかも根がしっかり者の良人の岳神が少しにやにやしながら、
「働けそうな女なので、共稼ぎにはいいと思いましてね、この奥地の八溝《やみぞ》山の岳神の妹だったのを貰《もら》って来ましたのです。これでも求婚の競争者が相当ございましてね」
という意味のようなことを話しかけると、妻は
「まあまあ、そんなお話、どうでもいいじゃございませんか」
「それよりかまだ山の中でおとうさまがお見残しのとこもございましょう。幸いよい天気でございますから、あなたご案内して差上げたら」
と、とかくに事物の歓待の方へ気を利かして行くのであった。
翁の方からは何もいい出せなかった。いい出せる義理合いではないと翁は思っていた。すでに東国へ思い捨てた子である。それが自力でかかる豊饒な山の岳神ともなっていて呉れてるのだから何もいうことは
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