淡々としていった。
「あなたが、わたくしを思い捨てなさるほど、わたくしはあなたに親しい愛娘になりましょう。その反対に、あなたが一筋でも低い肉親の血をわたくしにおつなぎのつもりがあったら、それは却ってわたくしから遠ざかりなさることになるのです。お判りになりませんか」
「わしが、おまえを東国へ思い捨てた歳からいま娘になるまでの歳月を数えてみるのに、いくら山の神々の歳月は人間の歳月と違うにしろ、数えて額《たか》が知れている。それを何十万年何百万年の生い立ちの話をするなんて、あんまり親をばかにし過ぎるぞ。……いくらこの山の座り幅が広いたって、三国か四国に亙っているに過ぎまい。それを海山遠く取入れた話をするなんて、あんまり大袈裟《おおげさ》だぞ。女の癖に」
 山の祖神のこういうたしなめ方に対し福慈の女神はもう何ともいわなかった。
「おい、娘、何とかいわんかい」
 と催促されてもうそ[#「うそ」に傍点]寒そうに袖の中に手を入れ合して立っているだけだった。
 山の祖神は
「こいつ氷のように冷たいおなごじゃねえ」
 といった。
「よし、きさまがそういう料簡《りょうけん》なら、こっちにもこっちの料簡がある」
 といい放った。
 山の祖神の翁に、噎返《むせかえ》るような怒りと愛惜の念、また、不如意の口惜しさ、老いて取残されるものの寂しさがこもごも胸に突き上げて来た。
 翁はじっとしていられなくなって廻された独楽《こま》のように身体のしん[#「しん」に傍点]棒で立上った。娘をはたっ[#「はたっ」に傍点]と睨《にら》み、焦げつく声でいった。
「よし、こうなったら、やぶれかぶれ。おれはきさまを詛《のろ》ってやる。金輪際《こんりんざい》まで詛ってやる。今更、この期になってびくつくまいぞ」
 娘の冴えまさる美しい顔を見ると、その毒心もつい鈍るので翁は眼を娘から外らしながら声を身体中から振り絞るべく、身体を揉み揺り地団太《じだんだ》踏みながら叫んだ。
「福慈の山、福慈の神、おまえは冷たい。骨の髄に浸みるまで冷たい。えい、冷たいままで勝手におれ、年がら年中冷たい雪を冠っておるのがいいのさ。草木も懐かぬ裸山でおれ。凍るものから、餌食を見出して来やがれ」
 ぺっぺっぺっと唾を三度、庭に吐き去りかけたが、ふとそこに落ちている小石の一つを拾って手早く懐に納め、
「ざまを見よ。やあいやあい」
 といって出て行った。
 この山の祖神の福慈の神に対する呪詛の言葉を常陸風土記では、
 汝所[#レ]居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民[#レ]不登、飲食勿[#レ]奠者
 という文字で叙している。またこれにより富士は常に白雪を頂き、寒厳の裸山になったのだ、と古常陸地方の伝説は構成している。

 東国へ思い捨てたこどもに邂逅《めぐりあ》う望みを、姉の福慈岳の女神に失望した山の祖神は、せめて弟に望みを果し度いものだと、なおも東の方を志して尋ね歩るき出した。姉に訊いたら、あるいは消息を知ったかも知れないが、薄情を怒るどさくさ紛れに、つい訊くのを忘れたのを今更残念に思うものの、取って返して訊き直すこともならない。山の祖神の翁は行き合う人に訊ねることを唯一の手がかりにしてひたすら東の方にある山を望んで足を運ばせた。
 行糧の料はすでに尽き、衣類、履ものも旅の責苦に破れ損じた。この身なりで物乞うては餓を満たして行く旅の翁を誰も親切には教えて呉れなかった。
 足柄の真間の小菅を踏み、箱根の嶺《ね》ろのにこ草をなつかしみ寝て相模《さがみ》へ出た。白波の立つ伊豆の海が見ゆる。相模|嶺《ね》の小嶺《おみね》を見過し、真砂|為《な》す余綾《よろぎ》の浜を通り、岩崩《いわくえ》のかげを行く。
 東の国へ行くには二手の道があった。一つは山寄りの道を辿るのと、一つは海を越えて廻って行く道とであった。
 山寄りの道を行く方が山の岳神を探すに便利は多いようなものの、それ等の山は多く未開の山で、ちょっと人に訊いただけでも、山の主は、百足《むかで》であるとか、猿であるとか、鷲であるとか、気の利いた山の神ではなかった。これでは訪ねずとも判っている。翁は身に疲れも出たことなり、漸く舟人に頼み込み、舟の隅に乗せて貰って浪路を辿った。
 海路は相模国三浦半島から、今の東京湾頭を横断して房総半島の湊へ渡るのが船筋だった。
 土地不案内に加えて、右往左往した上、乗った船もここにはやて[#「はやて」に傍点]を除け、かしこに凪ぎを待つという進み方なので山の祖神の翁の上に人間の歳月の半年以上は早くも経ってしまった。
  夏麻《なつそ》挽く、海上潟《うみかみがた》の、沖つ州に、船は停《とど》めむ、さ夜更けにけり。
 しとしとと来た雨の夜泊の船中で、寝《い》ねがてた苫《とま》の雫の音を聞いていると翁の胸はしきりに傷んだ。翁は拾って来た
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