のはかの女だった。かの女は和装で吾妻下駄《あずまげた》をからから桟橋に打ち鳴らしながら、まるで二三日の旅に親類へでも行くような安易さだった。
かの女はまた情熱のしこる時は物事の認識が極度に変った。主観の思い詰める方向へ環境はするする手繰られて行った。
身体に一本の太い棒が通ったように、むす子のことを思い詰めて、その想い以外のものは、自分の肉体でも、周囲の事情でも、全くかの女から存在を無視されてしまうときに、むす子のいる巴里は手を出したら掴《つか》めそうに思える。それほど近く感じられる雰囲気の中に、いべき筈《はず》のむす子がいない。眼つきらしいもの、微笑らしいもの、癖、声、青年らしい手、きれぎれにかの女の胸に閃《ひらめ》きはするが、かの女の愛感に馴染《なじ》まれたそれ等のものが、全部として触れられず、抱え取れない、その口惜しさや悲しさが身悶《みもだ》えさせる。ふとここでかの女の理性の足を失った魂のあこがれが、巴里の賑《にぎ》やかさという連想から銀座へでも行ったらむす子に会えそうな気を彼女にさせる。さすがに彼女も一二度はまさかと思い返してみるけれども、今度は、あこがれだけがずんずん募っ
前へ
次へ
全171ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング