]乍《なが》ら云った。そして、かの女等は先のことは心にぼかしてしまって、人に羨《うらや》まれる一家|揃《そろ》いの外遊に出た。
足かけ四年は、経《た》った。かの女の一家は巴里にすっかり馴染《なじ》んだ。けれども、かの女達はついに日本へ帰らなくてはならない。
その時かの女は歯を喰《く》いしばって、むす子を残すことにした。むす子は若いいのちの遣瀬《やるせ》ない愛着を新興芸術に持ち、新興芸術を通して、それを培《つちか》う巴里の土地に親しんだむす子は、東洋の芸術家の挺身隊《ていしんたい》を一人で引受けたような決心の意気に燃えて、この芸術都市の芸術社会に深く喰い入っていた。今更、これを引離すことは、勢い立った若武者を戦場から引上げさすことであり、恋人との同棲から捩《も》ぎ外《はず》すことだった。(巴里のテーストはもはやむす子の恋人だった。)それを想像するだけで、かの女は寒気立った。むす子にその思い遣《や》りが持てるのは、もはやかの女自身が巴里の魅力に憑《つ》かれている証拠だった。
ふだん無頓着《むとんちゃく》をよそおっている逸作も、このときだけは、妙に凄《すご》い顔付きになっていった。
「巴里留学は画学生に取っていのちを賭《か》けてもの願いだ。それを、おれは、青年時代に出来なかった。だから、おれの身代りにも、むす子を置いて行く」
だが、こう筋立った逸作の言葉の内容も、実は、かの女やむす子と同じく巴里に憑かれた者の心情を含んでいた。人間性の、あらゆる洗練を経た後のあわれさ、素朴さ、切実さ――それが馬鹿らしい程小児性じみて而《しか》も無性格に表現されている巴里。鋭くて厳粛で怜悧《れいり》な文化の果てが、むしろ寂寥を底に持ちつつ取りとめもない痴呆《ちほう》状態で散らばっている巴里。真実の美と嘆きと善良さに心身を徹して行かなければいられない者が、魅着し憑かれずにはいられない巴里《パリ》――だが、そこからは必ずしも通俗的な獲物は取り出せないのだ。むす子がどれ程深く喰《く》い入りそこから取り出すであろう芸術も、それをあの賢夫人やその他多くの世間人達がむす子に予言するような、いわゆる偉い通俗の「出世社会」に振りかざし得ようとの期待は、親もむす子も持たなかった。置く者も置かれる者も、慾や、見栄や、期待ではなかった。もっとせっぱ[#「せっぱ」に傍点]詰ったあわれ[#「あわれ」に傍点]なあわれ[#「あわれ」に傍点]な心の状態だった。
所詮《しょせん》、かの女はむす子と離れて暮さねばならなかった。
うつし世の人の母なるわれにして
手に触《さや》る子の無きが悲しき。
むす子が巴里の北のステイションへ帰朝する親たちを送って来て、汽車の窓から、たしない小遣いの中で買ったかの女への送別品のハンケチを、汽車の窓に泣き伏しているかの女の手へ持ち添えて、顔も上げ得ず男泣きに泣いていた姿を想《おも》い出すと、彼女は絶望的になって、女ながらも、誰かと決闘したいような怒りを覚える。
だが、その恨みの相手が結局誰だか判らないので、口惜しさに今度は身体が痺《しび》れて来る。
バスは早瀬を下って、流れへ浮み出た船のように、勢を緩めながら賑《にぎ》やかで平らな道筋を滑って行く。窓硝子《まどガラス》から間近い両側の商店街の強い燭光を射込まれるので、車室の中の灯りは急にねぼけて見える。その白濁した光線の中をよろめきながら、Mの学生の三四人は訣《わか》れて車を降り、あとの二人だけは、ちょうどあいたかの女の前の席を覘《うかが》って、遠方の席から座を移して来た。かの女は学生たちをよく見ることが出来た。
一人は鼻の大きな色の白い、新派の女形にあるような顔をしていた。もう一人は、いくら叩《たた》いても決して本音を吐かぬような、しゃくれた強情な顔をしていた。
どっちとも、上質の洋服地の制服を着、靴を光らして、身だしなみはよかった。いい家の子に違いない。けれども、眼の色にはあまり幸福らしい光は閃《ひらめ》いていなかった。自我の強い親の監督の下に、いのちが芽立ち損じたこどもによくある、臆病《おくびょう》でチロチロした瞳《ひとみ》の動き方をしていた。かの女は巴里で聞かされたピサロの子供の話を思い出した。
かの女がむす子と一緒に巴里で暮していたときのことである。かの女はセーヌ河に近いある日本人の家のサロンで、永く巴里で自活しているという日本人の一青年に出遇《であ》った。
「僕あ、ピサロの子を知っています。二十歳だが親はもう働かせながら勉強さしています」
青年が何気ない座談で聞かせて呉《く》れたその言葉は、かの女に、自分がむす子に貢いで勉強さしとくことが、何かふしだら[#「ふしだら」に傍点]ででもあるような危惧《きぐ》の念を抱かした。
しかしかの女はずっとかの女の内心で
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