ぞ」
「恋愛はその限りに非《あら》ずか」
 芸術写真師は傍から揶揄《からか》った。
「そんなことはない」とアルトゥールは写真師を噛《か》むように云ったが、すぐ興醒《きょうざ》め声になっていった。
「だが恋愛に関する限り、たとえば、嫉妬《しっと》だとか憎みだとかいうものは、生活に暇があって感情を反芻《はんすう》する贅沢《ぜいたく》者たちの取付いている感情だ。おれたち忙しい人間は感情は一渦紋で、収支決算をつけて、決して掛勘定にしとかない。感情さえ現金《キャッシュ》払いだ。現実から現実へ飛び移って行くんだ。嫉妬だとか、憎みだとかいうものは、感情に前後の関係を考える歴史趣味だ」
 アルトゥールの云うこととは別の中味は、もう二重になっていて、云ってる意味と違ったものを隠しているようだった。心に臆《おく》したものがあって、そういう他人と深い交渉をつける膠質の感情は、はじめからこの男には芽も無いらしい。
 大広間一面のざわめきが精力を出し切って、乾き掠《かす》れた響を帯び、老芸人の地声のように一定の調子を保って、もう高くも低くもならなくなった。天井に近く長い二流三流の煙の横雲が、草臥《くたび》れた乳色になって、動く力を失っている。
 靠《もた》れ框《がまち》の角の花壺《はなつぼ》のねむり草が、しょうことなしに、葉の瞼《まぶた》を尖《さき》の方から合せかけて来た。
 壁の前に、左の腕にナフキンをかけて彫刻のように突立っているギャルソンの頭が、妙に怪物染みて見える。
「みんな、この子と仲好くしてやって下さいね」かの女はグループを見廻《みまわ》してそういった。
「たのみますよ」
 時に、かの女のいるテーブルの反対側の広間から、俄《にわか》に鬨《とき》の声が挙って、手擲弾《てなげだん》でも投げつけたような音がし出した。かの女はぴくりとして怯《おび》えた。同じくびっくりした壁の前のギャルソンは、急いでその方へ駆けて行ったが、すぐ一抱えにクラッカーの束を持って来て、テーブルの上へ投げ出した。
 謝肉祭《カルナヴァル》
 もう、そのとき、クラッカーを引き合って破裂させる音は、大広間一面を占領し、中から出た玩具の鳴物を鳴らす音、色テープを投げあうわめき、そしてそこでも、ここでも、※[#「※」は「口+喜」、第3水準1−15−18、637−下−13]々《きき》として紙の冠《かぶ》りものを頭に嵌《は》めて見交し合う姿が、暴動のように忽《たちま》ち周囲を浸した。
「おかあさん、何? 角笛《ホーン》、これ代えたげる冠りなさい」
 うねって来る色テープの浪。繽紛《ひんぷん》と散る雪紙の中で、むす子は手早く取替えて、かの女にナポレオン帽を渡した。かの女は嬉《うれ》しそうにそれを冠った。ジュジュ以外のものも、銘々当った冠りものを冠った。ジュジュには日本の毛毬《けまり》が当った。
 活を入れられて情景が一変した。広間は俄《にわか》に沸き立って来た。新しい酒の註文にギャルソンの駆《は》せ違う姿が活気を帯びて来た。
 かの女はすっかりむす子のために、むす子のお友達になって遊ばせる気持を取戻し、ただ単純に投げ抛《う》ったりしているジュジュの手毬《てまり》を取って、日本の毬のつき方をして見せた。

  ほうほうほけきょの
  うぐいすよ、うぐいすよ
  たまたま都へ上るとて上るとて
  梅の小枝で昼寝して昼寝して
  赤坂|奴《やっこ》の夢を見た夢を見た。

 かの女はこういうことは案外器用であった。手首からすぐ丸い掌がつき、掌から申訳ばかりの蘆《あし》の芽のような指先が出ているかの女のこどものような手が、意外に翩翻《へんぽん》と翻《ひるがえ》って、唄《うた》につれ毬をつき弾ませ、毬を手の甲に受け留める手際は、西洋人には珍しいに違いなかった。
「オオ! 曲芸《シルク》!」
 彼等は厳粛な顔をしてかの女のつく手を瞠《みい》った。
 かの女はまた、毬をつき毬唄を唄っている間に、ふと、こんなことを思い泛《うか》べた。毬一つ買ってやれず、むす子を遊ばせ兼ねたむかし、そして、むす子が二十になって、今むす子とその友達のために毬唄をうたう自分。憎い運命、いじらしい運命、そしてまたいつのときにかこの子のために毬をつかれることやら――恐らく、これが最後でもあろうか。すると、声がだんだん曇って来て、涙を見せまいとするかの女の顔が自然とうつ向いて来た。
 むす子は軽く角笛に唇を宛《あ》て、かの女を見守っていた。
 女たちが代って覚束《おぼつか》なく毬をつき習ううち、夜は白々と明けて来た。窓越しにマロニエの街路樹の影が、銀灰色の暁の街の空気から徐々に浮き出して来た。
 室内の人工の灯りが徐々に流れ込んで、部屋を浸す暁の光線と中和すると、妙に精の抜けた白茶けた超現実の世界に器物や光景を彩り、人々は影を失った
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