っぱで、圧倒的な指揮権を持っていた。
女たちは、何かいうにも、むす子に対して伏目になり、半分は言訳じみた声音で物を云った。それに対してむす子は、何等情を仮さないと云った野太い語調で答えた。それは答えるというよりも、裁く態度だ。裁判官の裁きの態度よりも、サルタンの熱烈で叱責的《しっせきてき》な裁き方だ。そういえば、かの女は思い起したことがある。日本にいる時から、この子供は女性から一種の怯《おび》えをもって見られていた。かの女の周囲に往来する夫人や娘たちは云った。
「イチローさんは、何だか女の気持を見抜いているような眼をした子供さんね。子供さんでも、あのお子さんに何か云われると、仕舞いに泣かされちまうわ。怖いわ」
そう云いながら、彼女達は家へ来るとイチローさんイチローさんとしきりに探し求めた。
なぜだろうか。それはかの女にも原因があるのではないかと、かの女は考えた。
かの女は、むす子が頑是ない時分から、かの女の有り剰《あま》る、担い切れぬ悩みも、嘆きも、悲しみも、恥さえも、たった一人のむす子に注ぎ入れた。判っても、判らなくても、ついほかの誰にも云えない女性の嘆きを、いつかむす子に注ぎ入れた。頑是ない時分のむす子は、怪訝《けげん》な顔をして「うん、うん」と頷《うなず》いていた。そしてかの女の泣くのを見て、一緒に泣いた。途中で欠伸《あくび》をして、また、かの女と泣き続けた。
稚純な母の女心のあらゆるものを吹き込まれた、このベビー・レコードは、恐らく、余白のないほど女心の痛みを刻み込まれて飽和してしまったのではあるまいか。この二十歳そこらの青年は、人の一生も二生もかかって経験する女の愛と憎みとに焼け爛《ただ》らされ、大概の女の持つ範囲の感情やトリックには、不感性になったのではあるまいか。そう云えば、むす子の女性に対する「怖いもの知らず」の振舞いの中には、女性の何もかもを呑み込んでいて、それをいたわる心と、諦《あきら》め果てた白々しさがある。そして、この白々しさこそ、母なるかの女が半生を嘆きつくして知り得た白々しさである。その白々しさは、世の中の女という女が、率直に突き進めば進むほど、きっと行き当る人情の外れに垂れている幕である。冷く素気なく寂しさ身に沁《し》みる幕である。死よりも意識があるだけに、なお寂しい肌触りの幕である。女は、いやしくも女に生れ合せたものは、愛をいのちとするものは、本能的に知っている。いつか一度は、世界のどこかで、めぐり合う幕である。むす子の白々しさに多くの女が無力になって幾分|諛《へつら》い懐しむのには、こういう秘密な魔力がむす子にひそんでいるからではあるまいか。そしてこの魔力を持つ人間は、女をいとしみ従える事は出来る。しかし、恋に酔うことは出来ない。憐《あわ》れなわが子よ。そしてそれを知っているのは母だけである。可哀相《かわいそう》なむす子と、その母。
「サヴォン・カディウム!」とエレンが、小さい鋭い声で反抗した。
むす子はエレンが内懐から取出して弄《もてあそ》び始めようとしたカルタを引ったくって取上げて仕舞ったのである。
「サヴォン・カディウム! サヴォン・カディウム!」ロザリも、おとなしいジュジュまでが立ちかかって手を出した。
むす子は可笑《おか》しさを前歯でぐっと噛《か》んで、女たちの小さい反抗を小気味よく馬耳東風に聞き流すふりをしている。
「何ですの。サヴォン・カディウムって」とかの女はちょっと気にかかって左隣の芸術写真師に訊《き》いた。
「ママンにサヴォン・カディウムを訊かれちゃった」明朗な写真師の青年は、手柄顔に一同に披露した。
女たちは、タイラントに対する唯一の苛めどころが見付かったというように、
「さあ、ママンに話そうかな、話すまいかな」と焦《じ》らしにかかった。
「ひょっとしてそれがむす子の情事に関する隠語ではあるまいか」こういう考えがちらりと頭に閃《ひらめ》くと、かの女は少し赫《あか》くなった。
「訊かない方がよかった」「しかし訊き度《た》い」「何でもないじゃないか」とむす子はフランス語で女たちを窘《たしな》めて置いて、今度はかの女に日本語でいった。
「カディウム・サヴォンというシャボンの広告が町の方々に貼《は》ってあるでしょう。あれについてる子供の顔が僕に似てるというんです。随分僕を子供っぽく見てるんですね」
それから、むす子は女たちの方を向いて同じ意味の事をフランス語でいって、付け足した。
「こうママンに説明したんだが、誰か異議があるか」
女たちは詰らない顔をした。かの女も詰らない顔をした。
「サヴォン・カディウム!」今度はかの女が突然、むす子に向ってこう呼びかけた。それは確にこの場の打切りになった感興の糸目を継ぐために違いなかったが、かの女は無意識に叫び出して仕舞った
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