るものだ」と単にこう思っただけだったが、直《す》ぐそのあとから、しんしんと骨身に痛みを覚え出した。


 かの女は、無事に日本の旅行を終ってフランスへ帰航するK・S氏夫妻を送って仕舞い、外人の送迎にやや疲労を感じたあとの心身を、久しぶりで自分の部屋のデスクの前に休めていた。そこへ郵便が来た。春日規矩男からである。
 その後ご無沙汰《ぶさた》しましたが、僕は今仙台市内のある住宅街に棲《す》んでいます。僕はあなたが仰言《おっしゃ》った『無』それ自身充足する積極的ないのちのあるということが気になり、これを研究立証してみたくて、普通なら哲学でしょうが現代の諸事情も参酌《さんしゃく》して、純枠科学理論の物理学を選びました。あなたにお訣《わか》れしたあの年の秋東北大学の理科に入り、今では研究室の助手をしています。今度は春の休みで一寸《ちょっと》上京しましたので直ぐにこちらへ引き返しました。研究の結果は卒業論文としました。それに尚《なお》研究を加えて一冊の書物に纏《まと》めますから、その時お送りいたしますとして今は申し上げません。それよりも僕は、三年前に母を失いましたことをお知せいたします。それからこれは余事ですが、僕はあの頃お話した許嫁《いいなずけ》とは、僕の意志から結婚しませんでした。そして今も独身です。
 K・S氏の展覧会の会場の銀座のデパートで、あなたが人中の僕を見て階段の上に佇《たたず》んでいらっしゃったのを知り、僕が何故むす子さんの絵を買ったかを云わなければ済まない気がしまして、絶えて久しい手紙を書きました。今後はまた今まで通り一切手紙を差し上げぬつもりで居りますが、僕の生活もとにかく軌道にだけは乗っていますからご安心下さい。
 僕は『世の中には奇蹟的《きせきてき》に幸福なむす子もあればあるものだ。そういうむす子の描いた絵が珍しいから僕の部屋へ掛けて眺めよう』
 こういう気持で一郎さんの絵を買ってかえりました。
[#下げて、地より1字あきで]春日規矩男
   O・K 夫 人 

 かの女もこの手紙へ今さら返事を書こうとはしなかった。しかし規矩男。規矩男。訣れても忘れている規矩男ではなかった。厳格清澄なかの女の母性の中核の外囲に、匂《にお》うように、滲《にじ》むように、傷むように、規矩男の俤《おもかげ》はかの女の裡《うち》に居た。
 今改めてかの女はかの女の中核へ規矩男の俤を連れ出してみようか――今やかの女のむす子を十分な成育へ送り届け、苦労も諸別もしつくしたかの女の母性は、むしろ和やかに手を差し延べてそれを迎え、かの女の夫の逸作の如く、
「君も若いうちに苦労したのだ。見遺《みのこ》した夢の名残りを逐《お》うのもよかろう」 
 斯《こ》うもかの女にもの分りよく云うであろうか。


  君が行手《ゆくて》に雲かかるあらばその雲に
  雪積まば雪に問へかしわれを。

  君行きて心も冥《くら》く白妙《しらたへ》に
  降るてふ夜の雪|黝《くろ》み見ゆ。



底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年〜1978(昭和53)年
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2001年5月7日公開
2003年7月27日修正
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