完全に消しているのです。(略)
 芸術家は飽くまでも革命家でなければならない。創造でなければならない。ここで××の科学性を引き出されるかも知れませんが、××の科学的理窟は××を汚すものなのではないでしょうか。お母さんが僕に曾《かつ》て小さい時説明して呉れたことは、もっと抜道なくベルグソンが彼のエヴォリューション・クレアートリスに説いています。万物は創造しつつ常に変形しているということです。(略)
 芸術家は芸術のみしか信じないでいいのです。芸術量の少いものが××や×××に行けばいいのです。お母さん、あなたはそんなに芸術家でいながら何をくよくよと迷っているのです。(然《しかし》し茲《ここ》にはっきり云って置くことは、××を打ち壊せということではないのです。良き社会人としての生活には、××は立派な意義や生命を持っているのです。×××の意義もそこにあるのです。すべての人の幸福のために戦うと云うところにあれら[#「あれら」に傍点]の意義はあるのです)
 しかし芸術家となった以上、そこにいわゆる社会人のおつとめ[#「おつとめ」に傍点]以外、もっと大変な芸術というすべてのモラルやカテゴリーや時代を超越したものにぶつかって行くのです。
 ジードは人間として×××になったけれど、彼の芸術までを×××に渡そうとはしません……(略)
 美のための美はいけない。
 芸術は××も×××美も何にもない処の、切実な現実を現わすのです。(略)
 この手紙を書いて仕舞って我ながら驚いたのです。何故ならお母さんの本当のところは××思想を解している。あの天地間の闊達無碍《かったつむげ》な超越的な思想からすれば、今更僕が以上のような手紙を書かなくてもいいわけなのです。こんな煩雑なことを誰がさせるのですか。お母さん、やっぱりあなたがさせるのです。お母さんはあんな立派な思想を研究し了解し得る素質を持っているくせに、お母さんの個人的にそれに添わない幼稚な到らない処が残っているのです。で、ともすれば子の僕にさえ、ただの××だなとお母さんを思わせ、こんな手紙も書かせるのです。お母さんの一方は余り偉過ぎます。一方は余り偉くなさ過ぎます。生憎《あいにく》なことには偉くない方がお母さん自身にも他にも多く働き掛けるのです。両方がよく調和した時がお母さんの本当の完成を見る時なのです。(後略)

 かの女はむす子が曾て、あれだけの感情家である自分の感傷を一言も手紙に書いて来たためしのないのを想《おも》い出しながら、書きかけの原稿紙にいつかこんな字を書いていた。
 むす子は厳しい、母は弱い。
母は女で、むす子は男で。――
「そりゃ、なんだい」
と逸作が笑いながら覗《のぞ》いて行った。
 あとでかの女はまた書いた。
 母は女で、むす子は男、むす子は男、むす子は男、男、男、男――男だ男だと書いていると、其処に頼母《たのも》しい男性という一領土が、むす子であるが為に無条件に自分という女性の前に提供された。凡《およ》そ女性の前に置かれる他の男性的領土――夫、恋人、友人、それらのどれ一つが母に与えられたむす子程の無条件で厳粛清澄な領土であり得ようか。かの女はそれを何に向って感謝すべきか。また自分よりも逞《たくま》しい骨格、強い意志、確乎《かっこ》とした力を備えた男性という頼母しい一領土が、偶然にも自分に依《よ》ってこの世界に造り出された。その生命の策略の不思議さにも、かの女はつくづくうたれて仕舞うのである。
 かの女と逸作が用事の外出から帰って来ると、取次のものが少し興奮した調子で、
「巴里《パリ》の坊っちゃんのお知合いの画家がいらっしゃいました。なにしろ東京駅へ着き立てに直《す》ぐ来られたので、鞄《かばん》もそのまま持っていられました」
 かの女の胸に、すぐそれが巴里前衛画派中今は世界的大家であるK・S氏であることが判明した。
「一人で? それとも奥さんと………」
「女の方もご一緒でした」K・S氏は新婚旅行の筈《はず》である。
 取次のものは、K・S氏が携帯した巴里のむす子からの紹介状を差し出した。
 それには態《わざ》と公式めいた簡潔な文で、先頃お知らせしたK・S氏をよろしくと書いてあった。
「で、その方達をどうしたのよ」
「よく運転手にそう云ってTホテルへお送りさしときました。只今《ただいま》、ご主人も奥さまもお留守のことをよく申し上げて」
 何となく機嫌のよくなった逸作が、持前《もちまえ》の癖を出して若者を揶揄《からか》いかけた。
「よく申し上げたとはどうかと思うね。辛うじて申し上げた程度だろう。なにしろ初等科のフランス語ではね」
「いえ、お二人とも英語でお話しでした。ですから僕も久し振りに英語のおさらいだと思って雄弁にやりました」若者は笑いながら舌で唇を嘗《な》めた。
 この上取次を揶揄
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