男の方が嵩《かさ》にかかったり――今日は×大学の前で車を乗り捨てて、そこで待ち合せていた規矩男にかの女は気位をリードされ勝ちだった。経験によると、こういう日に規矩男の心は何か焦々と分裂して竦《すくま》って居り、何か分析的にかの女に突っかかるものがあった。何かのはずみでまた許嫁の話になると、規矩男はまるでかの女が無理にその女性を規矩男に押しつけてでもいるような、云いがかりらしい口調を洩《も》らしたり、少しの間かの女がむっつりと俯向《うつむ》いて歩いていると、規矩男はだしぬけに悪党のような口調で云った。
「あなたは一本気のようでそうとう比較癖のある方らしい。僕の女性と巴里のむす子さんのと較《くら》べて考えてらっしゃるんじゃありませんか」
これはかなり子供っぽい権柄《けんぺい》ずくだ。
「どうしたの。そんな云い方をして」
かの女は不快になってたしな[#「たしな」に傍点]めた。
「較べて考えるとすれば、私はあなたの好みとむす子の好みと女性の上では実によく似てると思っていたのよ」
すると規矩男はぽかんとした気を抜いた顔をして、鼻を詰め口を開《あ》けて息をした。
「怒るならあやまりますよ。どうも自分でも今日は気分の調子が取りにくい気がします」規矩男は駄々児《だだっこ》のように頭を振った。
「むす子に女性が出来てるかどうかまだ知らないけれど、私むす子の好きそうな女性を道ででも何処ででも見つけるとみんな欲しくなっちまうの。だけどそのなかに女特有の媒介性が混っているんじゃないかと思って、時々いやあな[#「いやあな」に傍点]気もするのよ」
かの女はむす子ばかりにこだわってるようで規矩男に少し気の毒になり、わざと終りを卑下して云った。
畑のなりもので見えなかったが、近寄ると新しく掘った用水があって、欄干《らんかん》のない橋がかかっていた。水はきれいで薄曇りの空を逆に映して居り、堀の縁には桜の若木が並木に植付けてあって、青年団の名で注意書きの高札が立っていた。
「みんな几帳面《きちょうめん》だなあ」規矩男は女性の問題はもう振り落したように独言を云った。
水を見て、桜木の並木を見て、高札を読んで、空を仰いでから、ちょっと後のかの女を振り返って、規矩男は更に導くように右手の叢《くさむら》の間の小径《こみち》へ入った。そこにはかの女が随《つ》いて行くのを躊躇《ちゅうちょ》した位、藪枯《やぶがら》しの蔦《つた》が葡《は》い廻っていた。
規矩男は小戻りして、かの女から預っているパラソルで残忍に草の蔓《つる》を薙《な》ぎ破り、ぐんぐん先へ進んだ。かの女はあとを通って行った。
雑木林の傾斜面を削り取って、近頃|拓《ひら》いたらしい赤土の道が前方に展開された。午後三時頃と覚える薄日が急にさして、あたりを真鍮色《しんちゅういろ》に明るくさせ、それが二人をどこの山路を踏み行くか判らないような縹緲《ひょうびょう》とした気持にさせた。
「まあこんなところがあるの」かの女は閃《ひらめ》く感覚を「猫の瞳《ひとみ》」だの「甘苦い光の澱《よど》み」だのと手早くノートしていると、規矩男は浮き浮きした声で云った。
「何? インスピレーション採っているの? 歌のですか」
「ふふふふ、歌のよ」
かの女はこのプラスフォーアを着たナポレオン型の美青年と歌の話をするのもどうかと無関心な顔をして、今日の規矩男の気勢を避けるため、さっきから持ち出していた小ノートに尚《なお》自分勝手な目前の印象を書き続けて行った。
「僕はあなたの歌を一昨夜母から見せられましたよ」
「あなたお母さんに私の事話しましたか」
「話しました」
「どうして知り合いになったって?」
「そんなこと気にかけないで下さい。僕だって文学青年だったこともあるもの、何も不思議がりはしませんよ。母はむしろ嬉《よろこ》んでいる様子でした。二三ヶ月前の雑誌から目つかったあなたの歌なんか僕に見せるくらいですもの。或はそれとなく心がけて見つけたんじゃないかな」
「…………」
「やっぱり巴里《パリ》のむす子さんへの歌だったな。『稚《おさ》な母』って題で連作でしたよ」
「…………」
「沢山あった歌のなかで一つだけ覚えてて僕暗記してます――鏡のなかに童顔写るこのわれがあはれ子を恋ふる母かと泣かゆ――ねえ、そうでしたね」
突然、かの女は規矩男と若い男女のように並んで歩いている自分に気がついた。つぎ穂のないような恥しさがかの女を襲った。それからかの女は突飛《とっぴ》に言って仕舞った。
「あなたの許嫁《いいなずけ》にも逢《あ》わしてよ」
かの女は立ち停《どま》って眼を閉じた。が、やがて何もかも取りなすような逸作のもの分りの好い笑顔が、かの女の瞼《まぶた》の裏に浮ぶと、かの女は辛うじて救われたように、ほっと息をして歩き出した。
「どうかしまし
前へ
次へ
全43ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング