んと下げているレジョン・ドヌールの豆勲章を眺めて老美人の魅力の淵の深さに恐れを感じた。
モツアルトの横町からパッシイの大通りへ突当ると、もうそこのキャフェのある角に音楽隊の屋台が出来ていて、道には七組か八組の踊りの連中が車馬の往来《おうらい》を止めていた。日頃不愛想だという評判のキャフェの煙草売場の小娘が客の一人に抱えられていた。まだ昼前なので遠くの街から集まって来た人達より踊り手には近所の見知り越しの人が多かった。それ等の中には革のエプロンの仕事着のまゝで買物包みを下げた女中と踊っている者もあった。彼等は踊りながら新吉と夫人に目礼した。キャフェの椅子は平常よりずっと数を増して往来へ置き出されていた。一しきり踊りが済むと狭く咽喉のようになった往来へ左右から止まっていた自動車や馬車がぞろ/\乗り出した。街路樹のプラタナスの茂みの影がまだらに路上にゆらめいた。
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――すっかりお祭りね。」
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老美人は子供のようなはしゃぎかたさえ見せて、喧騒の渦の音が不安な魅力で人々を吸い付けている市の中心の方角へ、しきりに新吉を促《うなが》し立てた。
晴れた日と鮮かな三色旗と腕に抱えている老美人との刺戟に慣れて来ると新吉は少し倦怠《けんたい》を感じ出した。すると歩調を合せて歩いている自分等二人連れのゆるい靴音までが平凡に堪えないものになって新吉の耳に響いた。
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――しつこい婆につかまって今日一日無駄歩きしちまうのだ。」
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弾力を失っている新吉の心にもこの憤りが頭を擡《もた》げた。キャフェの興奮が消えて来た新吉の青ざめた眼に稲妻形に曲るいくつもの横町が映った。糸の切れた緋威《ひおど》しの鎧《よろい》が聖アウガスチンの龕《トリプチック》に寄りかゝっている古道具屋。水を流して戸を締めている小さい市場。硝子窓から仕事娘を覗かしている仕立屋。中産階級の取り済ました塀。こんなものが無意味に新吉の歩行の左右を過ぎて行った。新吉は子供の時分奮い立った東京の祭のことを思い出した。店のあきないを仕舞って緋の毛氈《もうせん》を敷き詰め、そこに町の年寄連が集って羽織袴で冗談を言いながら将棊《しょうぎ》をさしている。やがて聞えて来る太鼓の音と神輿《みこし》を担ぐ若い衆の挙げるかけ声。小さい新吉は堪らなくなって新しい白足袋のまゝで表の道路へ飛び下りるのだった。縮緬《ちりめん》の揃いの浴衣の八ツ口から陽《ひ》にむき出された小さい肘に麻だすきへ釣り下げたおもちゃの鈴が当って鳴った。
気分というものは不思議に遇合することがあるものだ。ベッシェール夫人もこどもの時代のことを想い出した。
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――あたしね。九つの歳の巴里祭に母に連れられてルュ・ラ・ボエシイを通るとね。ベレを冠った鬚《ひげ》の削《そ》りあとの青い男に無理に掴まって踊らされてね。その怖ろしさから恋を覚え始めたのよ。今でもベレを冠った鬚の削りあとの青い男を見ると何んだかこわいような、懐かしいような気がするのよ。」
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横町と横町の間を貫く中通りにはブウローニュの森の観兵式を見物した群集のくずれらしいかなり多勢の行人の影が見えた。その頭の上に抜きん出て銀色に光る兜《かぶと》のうしろに凄艶《せいえん》な黒いつやの毛を垂らしている近衛兵が五六騎通った。
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――あんた、まさか奥さんの手紙を懐に持って出ていらしたのじゃないでしょうねえ。」
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夫人の想出話に対して新吉の返事がはかばかしくないので、夫人は急にこんなことを言い出した。新吉は危ないと思って、
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――あんたこそ、ジョルジュ氏のムウショワールでもバッグへ入れてやしませんかね。」
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と逆襲した。すると夫人は新吉の腕から手を抜いて肩を掴え、
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――あたし、そういう情味のはなし大好きですわ。」
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と言って夫人は、更《あらた》めて新吉の頬に軽く接吻した。新吉は斯《こ》ういう馬鹿らしいほど無邪気な夫人に今更あきれて、やっぱり憎み切れない女だと思った。
目的もなく昼近い太陽に照りつけられながら、所々に道一杯になって踊る群衆に遮《さえぎ》られ、または好奇心から立止まってそれを眺めたりしている内に、二人は元へ戻るような気のする坂道を登りかけて居るのを感じた。道のわきに柵があって、その崖の下の緑樹の梢を越してトロカデロ宮殿の渋い円味のある壁のはずれを掠《かす》めて規則正しくセー
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