行ってあの卒業生と結婚したとかしないとか噂だけで、行方が判らなくなったり、近頃やっと巴里にまたいるらしいという噂を突きとめたそれ以上のことが判らないのがまだ自分の不運の続きのように思え、また判らないことが却《かえ》って折角たゞ一つ残って居る美しい夢を醒さないでいて呉れる幸福のように思えた。
新吉が金槌をいじりながら考え込んでいるのを見て夫人は意地悪くねじ込むような声で言った。
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――あたったものだから黙っていらっしゃる。あたしは妙な女ですからそのつもりで聴いて下さいな。あたしあなたが只の遊び女と出来たのかなんかなら何とも思いませんの。けれど国元の奥さんを想い出すような親身な気持ちになった男の方にはお隣に住んでいて、じっとして居られませんの。あたしは寡婦《やもめ》ですからね。正直に白状すればとてもやきもちが妬《や》けますの。あなたのところへ奥さんの手紙が来た翌日からあなたの御様子が変ったように見えて。御免なさいな、病的でしょうか。でも仕方がないわ。正直に言わなけりゃ、もっとやきもちが、ひどくなりそうなの。つまりあなたは奥さんの所へ帰る前に最後の巴里祭を見て行き度いために巴里に今年は残ったのでしょう。喰いとめなけりゃ気が済まないわ。とても、明日の巴里祭をあなたに面白くして奥さんの所へなんか帰さない工夫をしなければならないわ。それで明日はあたしあなたと一緒について巴里祭に行くつもりよ。お婆さんと一緒じゃお気の毒だけれど。然しこうなれば目茶よ。だからどうぞ其のおつもりでね。」
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夫人は冗談の調子で言って居るのだけれど、此の冗談には夫人の新吉への病的な関心が充分含まれて居るのだ。
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――兎に角、明日は私とお遊びなさい。私あなたの自由に遊んで上げます。気に入った女が見つかれば一緒に歩いても上げますわ。」
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夫人はこれも決定的な本心を含めた冗談で言った。
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――どうぞ、まあ、よろしくおたのみします。」
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新吉はつい弱気に言ってしまった。
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――朝、お迎えに来るわ。」
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夫人は遂々冗談を本当に仕上げて満足そうに帰りかけたが蓋をした灰殻壺の中の憐れっぽい子雀の籠った鳴声に気付くと流石《さすが》に戻って、
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――可哀想なことをしたのね。これあたし頂戴《いただ》いて行きますわ。」
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壺のまゝ雀を持って夫人は出て行った。夫人の後姿を見送って新吉はひとり小声で「うるさい婆さんだな」と云った。だが新吉は美貌な巴里女共通の幽《かす》かな寂《さ》びと品格とが今更夫人に見出され、そして新吉はまた、いつも何かの形で人を愛して居ずにいられないこの種の巴里女をしみ/″\と感じられるのだった。
眼を半眼、開いたまゝ鉛の板のように重苦しく眠り込んでいた新吉は伊太利《イタリー》の牧歌の声で目覚めた。朝の食事が出来たので、通い女中ロウジイヌが蓄音器をかけて行って呉れたのだ。野は一面に野気の陽炎《かげろう》。香ばしい乾草の匂いがユングフラウを中心に、地平線の上へ指の尖《さ》きを並べたようなアルプス連山をサフラン色に染めて行く景色を、はっきりと脳裡に感じながら、新吉はだん/\意識を取戻して行った。牧歌が切れて濃いキャフェが室内の朝の現実のにおいとなって強く新吉の鼻に泌《し》みて来た。新吉は昨晩レストラン・マキシムで無暗にあおったシャンパンの酸味が爛《ただ》れた胃壁から咽喉元へ伝い上って来るのに噎《むせ》び返りながらテーブルの前へ起きて来た。吐気《はきけ》に抵抗しながら二三杯毒々しいほど濃い石灰色のキャフェを茶碗になみ/\と立て続けに飲んだ。吐気はどうやら納って、代りに少し眩暈《めまい》がするほどの興奮が手足へ伝わり出した。空は晴れている。昨日自分が張り渡した窓の装飾の綾模様を透して向う側の妾町の忍んだような、さゝやかな装飾と青い空の色と三色旗の鮮やかな色とが二つの窓から強い朝日に押し込まれて来たように、新吉の眼を痛いほど横暴に刺戟する。立たなければよくも見分けられぬが恐らくベッシェール夫人の屋根越しのエッフェル塔も装飾していることだろう。
新吉は此の装飾の下に雑沓《ざっとう》の中でカテリイヌを探す自分のひと役を先ず頭に浮べたが次にリサがまたどういう工夫で今日の祭の街で自分に新らしい娘を送り届けるのか。自分につきまとうベッシェール夫人とそれがどう縺《もつ》れるか。考えると頭がすこし憂鬱になった。
ゆうべはマキシムで偶然ベッシ
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