かったがまだ此の時分新吉は籍を置いた学校の教室へ表面だけは正直に通っていた。
 主婦は歿《な》くなりでもしたと見え食事中も世話は娘のカテリイヌが焼いていた。新吉は此のカテリイヌのなかにもおみち[#「おみち」に傍点]を探そうとしてあべこべの違った魅力で射すくめられた。カテリイヌのあどけなさはおみち[#「おみち」に傍点]の平凡なあどけなさとは違った特色の魅力となって人にせまる。声は竪琴《たてごと》にでも合いそうにすき透っていた。そして位をもちつゝ行届いたしこなしに、斜に向い合った新吉は鏡に照らされるような眩《まぶ》しい気配《けは》いを感ずるばかりで、とてもカテリイヌの顔をいつまでも見つめて居られなかった。
 食事が済んで客はサロンへ移った。西洋慣れない新吉がろく/\食後のブランデイの盃をも挙げ得ないのを見て教授はしきりに話しかけて呉れた。日本の建築の話も少しは出た。だが酔の深くまわるにつれ教授は娘の自慢話を始めた。教授は想像される年齢よりもずっと若く見える性質なので二十三、四にもなるらしい大きなカテリイヌを娘と呼ぶのが不似合に見えた。ましてその娘の自慢の仕方はいくら酔の上と見ても日本人の新吉をはら/\させた。
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――誰でも此の娘を見てシャルムされないものはないそうですよ。みんな、そう言いますよ。君もそう思いませんか。そしてよくこの娘は恋文を貰うのです。みんな真剣なものです。近頃も学校の卒業生でエジプトへ研究に行った男が二年間この娘に逢えないと思うと淋しくて仕方がないと手紙をよこして言って来ました。」
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 教授は娘を売りつけるつもりでこんなことを言うのか。それとも西洋人は妻や娘の自慢を露骨にするとかねて人から聴かされていたがこれは其の極端な現れなのか、新吉は返事に苦労しながら、一方それとなく教授の様子を探っていた。教授は、したゝるような父親の慈愛《じあい》の眼で娘の方を見やったが再び芸術家によくある美の讃美に熱中しているときの決闘眼《はたしめ》で新吉に迫った。
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――君は僕の言うことをまだ疑ってるようですね。そうだ。この娘の魅力は膝へ抱えてみると一層よく判るのだ。わたしは父としてよく知っている。君一つ抱いてみ給え。」
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 その前から父と新吉とのはなしを困惑と好奇心で顔を赧《あか》らめながら聴いていたカテリイヌは父の振り向いた顔に強いられて少し浮腰のまゝ、気まり悪るげに左肩へ首をすぼめて、一たん逃腰になったが、父親ののがさない命令に急激な決心を極めた。彼女は一足跳ねたダンス足の左の靴の踵に、床を滑って右の踵が追い迫り、あなやと思う間にひらりと新吉の膝の上に彼女は乗っかった。新吉は柔いものゝ無限の重量を感じ、体は華やかな圧迫で却《かえ》って板のように硬直して了った。
 彼女は困惑から泌み出る自然の唐突さで言った。
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――日本の娘さんは悲しそうに男の方にお逢いなさるそうですね。」
[#ここで字下げ終わり]
 こういう場合に同席する西洋人等の態度も新吉には珍らしかった。そこにはルーマニアの男とカナダの男との他に五人の若いフランス人が居たが彼等は揃って、さも好もしいものを見るという幸福な顔をして二人の組合せ像を眺めた。
 その夜新吉の膝に加えられたカテリイヌの柔い重圧が新吉のメランコリーに深く泌み込んで仕舞ったのを新吉はいまいましく思いながら、まぼろしのようにその夜教授の部屋の窓から眺めた月光を含む靄の中からサンミッシェル街の灯影を思い泛《うか》べて、秋の深まり行く巴里の巷《ちまた》を幸福と懊悩《おうのう》に乱れ乍《なが》らさまよい歩いた。斯《こ》うしてカテリイヌと二度会う機会を待っているうちに新吉は思いがけなく遊び女のリサと逢って仕舞った。


 新吉は寝椅子の上でおみち[#「おみち」に傍点]の手紙を状袋にしまった。それから手を伸して貴金属商アンドレの店頭装飾写真の入っている額椽《がくぶち》のうしろへ挟んだ。十年以上も無視していたおみち[#「おみち」に傍点]が急に蘇って来たのはどうしたわけだろうか。たった二三行の手紙の文句で日本へ帰る思いが燃え立ったのはどうしたわけだろうか。おみち[#「おみち」に傍点]のあのおさな顔が其のまゝでちらほら白髪が額にほつれて来た。此の報告が巴里の生活で情感を磨《みが》き減らして無感覚のまゝ冴え返っている新吉の心に可なりのさびしみを呼び起した。おみちがたゞ年老いて行くことだけでは憐れとも思わない。あの眼も口も篦《へら》で一すくいずつ平たい丸みから土をすくっただけで出来上っている永遠に滑らかな人形のような顔。それに時が爪をかけはじめたのだ
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