たい願いだけがつき上げて来た。
 顔を洗って着物を着代えているとどこからともなく古風で派手なワルツが凪《な》いだ空気へ沖の浪のなごりのように、うねりを伝えて来る。後からそれを突除けて、ジャズが騒狂な渦の爆発の響を送る。祭は始まった。表通りを大人連のおしゃべりの声。子供達の駆けて行く足音。
 白い帽子を手に取って姿鏡の前に立って自分の映像に上機嫌に挨拶して新吉は、其の癖やはり内心いくらか憂鬱を曳きながら部屋を出た。入口の門番《コンシェルジュ》の窓には誰も居なくて祭の飾りの中にゼラニウムの花と向いあって籠の駒鳥が爽《さわ》やかに水を浴びていた。
 割栗石の鋪石[#「石」に「ママ」の注記]へ一歩靴を踏み出す。すると表の壁の丁度金鎖草の枝垂《しだ》れた新芽が肩に当《あた》るほどの所で門番《コンシェルジュ》のかみさんと女中のロウジイヌとがふざけて掴み合っていたのが新吉の姿を見ると急に止めて笑いながら朝の挨拶をした。それから隣のベッシェール夫人の家に向って、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――奥さん。うちのムッシュウがお出かけですよ。」
[#ここで字下げ終わり]
 と声を揃えてわめいた。
 ちゃんと打合せが出来ていたものと見え、すっかり着飾ったベッシェール夫人は芝居の揚幕の出かなんぞのように悠揚《ゆうよう》と壁に剔《く》ってある庭の小門を開けて現われた。黒に黄の縞の外出服を着て、胸から腰を通して裳へ流れる線に物憎い美しさを含めている。夫人は裏にちょっと鳥の毛を覗かせたパナマ帽の頭を傾げて空の模様を見るような恰好をした。飽《あく》まで今日の着附けの自信を新吉に向って誇示しているらしかったが、やがて着物と同じ柄の絹の小日傘をぱっと開くと半身背中を見せて左の肩越しに新吉の方へ豊かな顎を振り上げた。眼は今日一日のスケジュールに就いて何の疑いをも持っていない澄んだ色をしている。遂々掴まったか――。新吉はそう思いながら夫人の傍へ寄って行って思わずいつもの礼儀どおり左の腕を出す。夫人は顎を引き、初めて笑った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――若い奥さんではなくてお気の毒ね。」
[#ここで字下げ終わり]
 と言ったが右の手を新吉の出した左の腕にかけるとまたさあらぬ態度になり、胸を張って歩き出した。新吉は夫人の顔にうっすり刷《は》いたほのかな白粉の匂いと胸にぽち
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