度から廃めるそうですよ。」
「へえ、やっぱり節約からでしょうか。」
「いえ、あれを二本飲むと眠るものが出来て困るからだそうです。」
 若い妻が老人の夫に嘆くそぶりで、
「いま巴里中であたしが一ばん不幸な女だろうと思うの。」
「なぜさ、なぜさ。」
「だって、お便通剤が一向利かないんですもの――。」
「ああ、またおまえのバレた冗談が、はじまったのか。」
 外では、グラン・パレイの春のサロンから出て来た人がちらほら晩餐までの時間を持てあましている。
 一人が道ばたの花園の青芝の縁に杖を垂直に立てて考えることには、
「ヒヤシンスはとても喫むまいが、チュリップというやつはこいつどうも煙草を喫みそうな花だ。」
 並木の有料椅子のランデヴウ。無料ベンチのランデヴウ。
 軽い水蒸気が、凱旋門からオベリスクの距離を実測よりやや遠く見せている。シャンゼリゼーの北側の店にこの間から展観されていた評判の夫婦乗軽体飛行機が売れたらしい。マロニエの茂みを分けて、紅色の翼が斜に往来へのっ[#「のっ」に傍点]と現れた。その丁度向側の家が持主の代が変りそうだという評判を聞いて、その家は保存的価値のある建築であったので、美術大臣が周章《あわ》てて今度の持主に手紙で政府の保護を申出でた。するとやがて返事が来た。女文字で
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御心配御無用に御座候。この家は前持主に妾《わたし》が与えし愛の代償として譲られしものに御座候。ゆめゆめ粗略には致すまじく候。かしこ。
[#ここで字下げ終わり]

    旧巴里の遺物

 オペラの辻を中心に、左右へ展開する大通《グランブールヴァル》とイタリー街のキャフェたちは、朝の掃除をしまって撒いた赭砂《あかすな》の一掴みを椅子やテーブルの足元に残している。ソーダの瓶と菓子|麺麭《パン》の籠とが縞のエプロンの上で日の光を受け止めている。短い秋を見限ってテラスの真ん中の丸暖炉と、角隅を囲う硝子屏風はもう季節の冬に対しての武装だ。
 乗合自動車《オートビユス》の轍《わだち》の地揺れのたびに落ちるマロニエやプラタアヌの落葉。
 テーブルの上へ、まだ活字が揮発油で濡れているパリ・ミデイの一版を抛り出して、キャフェの蕭条をまづ第一に味わいに来たのは Boulevardier《ブールブァルディエ》(界隈の人、或は大通漫歩《グランブルヴァル》の人と訳すべきか)と呼ばれている巴里の遺物である。大体、戦前から戦後にかけて彼の筆役勤務の現役を終えた文人であって、この付近に雑誌社、新聞社の巣窟があった時代の習慣で足はおのずとここへ向く。デカダン時代の風雅に養成された彼は、今日の唯物的健康なるものに対して悉く反噬《はんぜい》する。
「このごろ西の郊外に出来る新住宅の様式は、あれは建築ではないね、あれは建築の骨組というものだ。造作は永久に取付けない――」
 併せて彼はフランス主義者だ。カクテールを誂えているアメリカ娘に向っていう。
「御免下さいお嬢さん。巴里には Cocktail《カクテール》 というものは御座いませんぜ、Coqueter《コクテー》 ならありますが。全然アメリカのものとは違うんです。

    十一番《ルオンジェーム》

 イタリー街の朝のキャフェの一つのテーブルにぐったり[#「ぐったり」に傍点]肱を落した絹襟巻の紳士は、マデレン寺院を中心に直径半マイルほどの円囲内に地潜っている賭博宿の一つから出て来たものだ。ニコチン中毒で冷たく乾燥した手の掌を頭の毛に摺りつけては、その触覚を取戻そうと努めながら口の中でいっている。
「十一番、十一番、十一番、十一番……。」
 近ごろ Sanremo Casino の賭博室で、ルーレットが十一番に六回続けて当ったという事件があった。四回まで同じ人が張って五回と六回は人が代った。もし同じ人が六回まで張り通したら、カジノは七十万円ばかりの損になる勘定であった。
 この噂がこの社会一般に伝わると、|No. 11《ヌューメロオンズ》 という数は異様な神秘をもって賭博者流の心を捉えた。十一番の模倣者が続出した。そしていたずらに「数」の気まぐれに翻弄された。
 白絹襟巻の紳士は、涸裂《ひわ》れた唇に熱い珈琲《コーヒー》のコップを思い切って押しつけた。苦痛を通して内臓機関に浸み込んで行く芳烈な匂いは、彼の眼に青とも桃色ともつかぬ二重の蝶を幻覚させた。その蝶が天地大に姿をフォーカスし去ると、そこに二階の窓々で飾人形を掃除している並木越しの商店街を見出した。



底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」修道社
   1959(昭和34)年2月20日発行
入力:門田裕志
校正:田中敬三
2006年3月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの
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