校通いを始めていて呉れているだろうか――。良人は一たん私を静かに胸から離して云いました。
「二人ともこれで実はそうとう深傷《ふかで》を負ってるのだなあ」
 私は生れて以来こんな悲壮な男らしい声を聞いたことがありません。逞ましい雄獅子が自分と妻の致命的な傷口を嘗《な》め労《いた》わりつつ呻《うめ》く、絶体絶命の呻きです。私の身体はぶるぶると慄えました。ここまで苦しんだなら、いくら厚い仕切りでも消える筈だ。私の心はくるりと全体の向きを変えました。二人をこの上とも苦しめようとするのは何者だろう。
 それは想い出だ。青春への未練だ。私はこの男にそれから逃れさすために、自分も潔《いさぎよ》くそれを捨てよう。私は女と生れた甲斐には気丈になって、この男を更生さしてやらなければならない。私は今度は進んで自分から良人の胸へ額を持って行きました。
「私も大人になりますから、あなたも過去のことは打切ってね。それからもう明日にも東京へ帰ることにして、すこしうちの事務の相談でもしましょうよ」
 結婚式は挙げても、二人の心境がほんとうに茲《ここ》まで進まなければ、事実上の良人と妻になってはならない――こう良人は潔い遠慮をし、私も自然にそれに従っていたのが、式後一ヶ月以上の礼儀正しい二人の生活内容であったのです。

 籔蔭に早咲きの梅の匂う浜田圃の畦《あぜ》を散歩しながら、私は良人が延ばしていた前の妻の墓標を建てることや、珪次の学費の補助のことや、感傷や遠慮を抜いた実質的な相談をしました。蒼溟として暮れかかる松林の上の空に新月が磨ぎ出された。一々私の相談を聞き取って確実な返事をしたのちに良人は和《なご》やかな気持ちになったらしい声で微笑しながら、
「この先の八幡が君の大好物の蒟蒻《こんにゃく》玉の名産地だそうだよ。今晩の夕飯に宿へ取寄せて貰って沢山食べ給えよ」



底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年3月〜1978(昭和53)年3月
初出:「新女苑」
   1938(昭和13)年2月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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