マギイ婆《ばあ》さんは保証した。序《ついで》に報酬《ほうしゅう》の歩合《ぶあい》をきめた。婆さんは一応帰って行った。
 リゼットは鏡に向《むか》った。そこで涙が出た。諺《ことわざ》の「ボンネットを一度水車小屋の磨臼《ひきうす》に抛《ほう》り込んだ以上」は、つまり一度|貞操《ていそう》を売物にした以上は、今さら宿命《しゅくめい》とか身の行末《ゆくすえ》とかそんな素人《しろうと》臭い歎《なげ》きは無い。ただ鏡がものを映《うつ》し窓掛《まどか》けが風にふわふわ動く。そういうあたりまえのことにひょいと気がつくと何とも知れない涙が眼の奥から浸潤《にじ》み出るのだ。いつかもこういう事《こと》があった。
 掛布団《かけぶとん》の端《はし》で撥《は》ねられた寝床《ねどこ》人形が床《ゆか》に落ちて俯向《うつむ》きになっていた。鼻を床につけて正直にうつ向きになっていた。ただそれだけが彼女を一時間も悲しく泣かした。
 涙と寝垢《ねあか》をリスリンできれいに拭《ふ》き取ってそのあとの顔へ彼女は「娘」を一人|絵取《えど》り出した。それは実際にはありそうも無い「娘」だった。曲馬《きょくば》の馬に惚《ほ》れるような物語の世界にばかり棲《す》み得る娘であった。この嘘《うそ》を現在の自分として今夜の街に生きる不思議を想《おも》うと彼女は嬉《うれ》しくて堪《たま》らなくなった。彼女はおしろいを指の先に捻《ね》じつけて鏡の上に書いた。
「わたしの巴里《パリ》!」
 マギイ婆さんとおいぼれ[#「おいぼれ」に傍点]がやって来た。二人とも案外《あんがい》見られる服装をしてやって来た。この界隈《かいわい》の人の間には共通の負けん気があった。いざ[#「いざ」に傍点]というときは町の小商人にヒケ[#「ヒケ」に傍点]はとらないという性根《しょうね》であった。その性根で用意した祭《まつり》の踊《おどり》に行く時の一張羅《いっちょうら》を二人はひっぱって来た。白いものも洗濯したてを奮発《ふんぱつ》して来た。
 三人はそこで残りの葡萄酒《ワイン》を分けて飲んだ。
「わたしの今夜の父親のために。」
 リゼットは盃《さかずき》を挙《あ》げた。
「わたしも今夜の愛する娘のために。」
 鋸楽師《のこがくし》は肝臓を押《おさ》えながらぬかりなく応答した。
 リゼットはマギイ婆さんに向《むか》っても同様に盃を挙げた。それに対して婆さん
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