お帰りかい。あなた、これがうちのです。
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 その男は横目でお琴のコップを睨《にら》みながら、気まずそうに頭を下げた。
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――むかしっからよくごひいきにして頂いたんだよ。よくお叩頭《じぎ》してお礼を言いなさいよ。
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 それから加奈子に向って、
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――この人、生意気に頭なんか分けてるんですよ、お婆の、かみさん持ってるくせに。
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 若い小男は急に頭を持上げて小声で怒鳴った。
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――ばかッ――。また酔ぱらったな。
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 それからさっさと土間からかけてある梯子段《はしごだん》で向うむきのまま靴を脱ぎ、メリンスのカーテンの垂らしてある中二階へ上って行った。
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――あんなに怒った顔をしていても直ぐに何でもなくなるんですよ。あたしゃ、すっかり男のこつを覚えましてね。今から考えるとやり方によっては先の亭主もあの養子野郎もあんなに増長させずに済んだと思いますよ。一たい男はおとなしい女は嫌いですね。
――おばさんお豆腐をこしらえる道具はどうしたの。
――あなたが洋行して居なさる間に世の中が変りましたね。いまこんな小さい豆腐屋では自分とこで品物はこしらえませんですよ。会社がありましてね、そこで大げさに製《こし》らえて分けるんです。あたし達はそこの会社の株主でもあり支店でもありますんでね。それから納豆も。
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 加奈子が差し出した手提げの菓子鉢をしきりに珍らしがったあとでお琴は真鍮の庖丁を薄く濁っている水の中へ差し入れ、ぶよぶよする四角い白い塊《かたまり》を鉢の中へ入れて呉れた。庖丁の腹で塊の頭を押えて大事そうに水を切る。
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――おお、恐かった。こんな立派なものへお豆腐なんか入れるのは始めてですからね。ですがこうすると、とても引っ立ちますね。まるでお豆腐には見えませんね。
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 加奈子が代価を払って店を出かけるときお琴はあわてて立って追って来た。
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――あのロンドンにいるとかいうお豆腐屋さんはなかなかよすとか死ぬとかしそうにはありませんかね。
――まあ、どうして。
――いえね。もしそんなことでもあったら一つ向うへ押し渡って豆腐屋でも始めようと思いましてね。男っていうものは割合に変りもの好きですからね。飽きさせないようにするのが一苦労ですよ。とてもうちにはこどもなんか生れそうもありませんからね。
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 加奈子はこんなおしゃべり婆さんのところにいつまでもいたくなかった。早くお京さんに逢い度かった。お京さんへの土産《みやげ》に買って来た伊太利《イタリー》フローレンス製の大理石のモザイクが小さな箱に納まったブローチとなって加奈子のポケットへ忍ばせてあった。加奈子は婆さんのおしゃべりに飽き飽きして片方の手をコツンと箱にさわらせた。そして一方の手で豆腐をいれた皿にはめた黒い鉄の提げ手を取った。加奈子のショールの外へ出た丸い手の薄皮にはほんのり枝を分けて透けて見える静脈が黄昏《たそがれ》を感じて細くなってる。貧しい町を吹きさらして来た棒のような風が豆腐を慄わせる。加奈子は何となしの悲哀に薄く涙のにじんだ眼で眺めて、崖の上のテニスコートに落ちる帰朝後四日目の太陽を惜《おし》んだ。
 日本の娘さんと正式の結婚をしたい。仏蘭西人アンリーのこういう願いからお京さんはアンリーに貰われた。アンリーはリヨンで王党の党員だったが矯激の振舞いがあったのでしばらくフランス縮緬《ちりめん》の輸出の仕事を請負って東洋へ来た。フランスから日本へは、たいした輸出品もないのだが、その中でも女の洋服地が一番崇高なものである。それで崇高な交易の途を追って日本へ来た。日本へ来てからは母国で矯激な振舞いなぞあったとも見えぬような律義な青年だった。千代田のお城の松をしきりに褒《ほ》めていた。そうかといって丸の内に建て増す足場無しに積み上げて行くアメリカ式のビルデングも排斥はしなかった。あれだってやっぱり日本人が拵《こし》らえたところはよく見えますよ。細部の行き亘っているところがやっぱり日本の建築ですね。などと如才なく言って居た。
 お京さんの家はちょっと大きい牛乳屋だった。×××種の牛を輸入して新聞に写真の広告を出していた。アンリーの家へも牛乳を入れていた。西洋人に異様な興味を持つ年頃であるお京さんは配達夫が持って行く牛乳の壜《びん》に日本の名所の絵葉書なぞ結びつけてやった。そんなことは一
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