ような花の層に柔かい萌黄《もえぎ》いろの桃の木の葉が人懐《ひとなつ》かしく浸潤《にじ》み出ているのに気を取り倣《な》されて、蝙蝠傘《こうもりがさ》をすぼめて桃林へ入って行った。
 思い切って桃花の中へ入ってしまえば、何もかも忘れた。一つの媚《こび》めいた青白くも亦《また》とき色の神秘が、着物も皮膚も透《とお》して味覚に快《こころよ》い冷たさを与えた。その味覚を味《あじわ》う舌が身体《からだ》中のどこに在《あ》るやら判《わか》らなかったけれど味えた。「伝十郎」とまるで人間の名のように呼ばれるこれ等《ら》の桃の名を憶《おも》い出して可笑《おか》しくなった。私は、あはあは声を立てて笑った。
 冷たいものがしきりなしに顔に当《あた》る。私は関《かま》わずに、すぼめて逆さに立てた蝙蝠傘を支えにして、しゃがんで休む。傘の柄《え》の両手の上に顎《あご》を安定させ、私は何かを静かに聴《き》く。本能が、私をそうさせて何かを聴かせているらしい。桃林の在るところは、大体《だいたい》川砂の両岸に溢《あふ》れた軽い地層である。雨で程《ほど》よく湿度を帯びた砂に私の草履《ぞうり》は裸足《はだし》を乗せてしなやかに沈んで行く。「すと」「すと」花にたまった雨の澪《しずく》の砂に滴《したた》る音を聴いていると夢まぼろしのように大きな美しい五感|交融《こうゆう》の世界がクッションのように浮《うか》んで来て身辺《しんぺん》をとり囲む。私の心はそこに沈み込んでしばらくうとうととする。
 こういう一種の恍惚感《こうこつかん》に浸《ひた》って私はまた、茶店《ちゃみせ》の美少年の前を手を振って通り、家の中二階へ戻る。私は自分が人と変《かわ》っているのにときどきは死に度《た》くなった。しかし、こういう身の中の持ちものを、せめて文章ででも仕末《しまつ》しないうちは死に切れないと思った。机の前で、よよと楽しく泣き濡《ぬ》れた。

 後年、伊太利《イタリア》フローレンスで「花のサンタマリア寺」を見た。あらゆる色彩の大理石を蒐《あつ》めて建てたこの寺院は、陽に当《あた》ると鉱物でありながら花の肌になる。寺でありながら花である。死にして生、そこに芳烈《ほうれつ》な匂《にお》いさえも感ぜられる。私は、心理の共感性作用を基調にするこの歴史上の芸術の証明により、自分の特異性に普遍性を見出《みいだ》して、ほぼ生きるに堪《た》えると心を決した。
 ――人は悩《なや》ましくとも芸術によって救われよう――と。



底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
※「しっきりなし」「ほごれる」「喘《あえ》き」「しきりなし」「澪《しずく》」「仕末《しまつ》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
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