足した。
細道の左右に叢々たる竹藪が多くなってやがて、二つの小峯が目近く聳《そび》え出した。天柱山に吐月峰《とげっぽう》というのだと主人が説明した。私の父は潔癖家で、毎朝、自分の使う莨盆《たばこぼん》の灰吹を私に掃除させるのに、灰吹の筒の口に素地《きじ》の目が新しく肌を現すまで砥石《といし》の裏に何度も水を流しては擦《す》らせた。朝の早い父親は、私が眠い目を我慢して砥石で擦って持って行く灰吹を、座敷に坐り煙管《きせる》を膝に構えたまま、黙って待っている。私は気が気でなく急いで持って行くと、父は眉を皺《しわ》めて、私に戻す。私はまた擦り直す。その時逆にした灰吹の口に近く指に当るところに磨滅した烙印《らくいん》で吐月峰と捺《お》してあるのがいつも眼についた。春の陽ざしが麗《うら》らかに拡がった空のような色をした竹の皮膚にのんき[#「のんき」に傍点]に据《すわ》っているこの意味の判らない書体を不機嫌な私は憎らしく思った。
灰吹の口が奇麗に擦れて父の気に入ったときは、父は有難うと言ってそれを莨盆にさし込み、煙管を燻《くゆ》らしながら言った。
「おかげでおいしい朝の煙草が一服吸える」
父はそこで私に珍らしく微笑《ほほえ》みかけるのであった。
母の歿したのちは男の手一つで女中や婆あやや書生を使い、私を育てて来た父には生甲斐《いきがい》として考証詮索の楽しみ以外には無いように見えたが、やはり寂しいらしかった。だが、情愛の発露の道を知らない昔人はどうにも仕方なかったらしい。掃き浄めた朝の座敷で幽寂閑雅な気分に浸る。それが唯一の自分の心を開く道で、この機会に於てのみ娘に対しても素直な愛情を示す微笑も洩《も》らせた。私は物ごころついてから父を憐れなものに思い出して来て、出来るだけ灰吹を奇麗に掃除してあげることに努めた。そして灰吹に烙印してある吐月峰という文字にも、何かそういった憐れな人間の息抜きをする意味のものが含まれているのではないかと思うようになった。
父は私と主人との結婚話が決まると、その日から灰吹掃除を書生に代ってやらせた。私は物足らなく感じて「してあげますわ」と言っても「まあいい」と言ってどうしてもやらせなかった。参考の写生や縮写もやらせなくなった。恐らく、娘はもう養子のものと譲った気持ちからであろう。私は昔風な父のあまりに律儀な意地強さにちょっと暗涙《あんるい》を催したのであった。
まわりの円味がかった平凡な地形に対して天柱山と吐月峰は突兀《とっこつ》として秀でている。けれども矗《ちく》とか峻《しゅん》とかいう峙《そばだ》ちようではなく、どこまでも撫《な》で肩《がた》の柔かい線である。この不自然さが二峰を人工の庭の山のように見せ、その下のところに在る藁葺《わらぶき》の草堂|諸共《もろとも》、一幅の絵になって段々近づいて来る。
柴の門を入ると瀟洒《しょうしゃ》とした庭があって、寺と茶室と折衷《せっちゅう》したような家の入口にさびた[#「さびた」に傍点]聯《れん》がかかっている。聯の句は
[#ここから2字下げ]
幾若葉はやし初の園の竹
山桜思ふ色添ふ霞《かすみ》かな
[#ここで字下げ終わり]
主人は案内を知っていると見え、柴折戸《しおりど》を開けて中庭へ私を導き、そこから声をかけながら庵《いおり》の中に入った。一室には灰吹を造りつつある道具や竹材が散らばっているだけで人はいなかった。
主人は関わずに中へ通り、棚に並べてある宝物に向って、私にこれを写生しとき給えと命じた。それは一休の持ったという鉄鉢《てっぱつ》と、頓阿弥《とんあみ》の作ったという人丸の木像であった。
私が、矢立《やたて》の筆を動かしていると、主人はそこらに転がっていた出来損じの新らしい灰吹を持って来て巻煙草を燻らしながら、ぽつぽつ話をする。
この庵の創始者の宗長《そうちょう》は、連歌は宗祇《そうぎ》の弟子で禅は一休に学んだというが、連歌師としての方が有名である。もと、これから三つ上の宿の島田の生れなので、晩年、斎藤加賀守の庇護《ひご》を受け、京から東に移った。そしてここに住みついた。庭は銀閣寺のものを小規模ながら写してあるといった。
「室町も末になって、乱世の間に連歌なんという閑文字が弄《もてあそ》ばれたということも面白いことですが、これが東国の武士の間に流行《はや》ったのは妙ですよ。都から連歌師が下って来ると、最寄《もより》々々の城から招いて連歌一座所望したいとか、発句《ほっく》一首ぜひとか、而《しか》もそれがあす[#「あす」に傍点]合戦に出かける前日に城内から所望されたなどという連歌師の書いた旅行記がありますよ。日本人は風雅に対して何か特別の魂を持ってるんじゃないかな」
連歌師の中にはまた職掌《しょくしょう》を利用して京都方面から関東へのスパイ
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