天から2字下げ]木枯しの身は竹斎に似たるかな
 十一月も末だったので主人は東京を出がけに、こんな句を口誦《くちずさ》んだ。それは何ですと私が訊くと
「東海道遍歴体小説の古いものの一つに竹斎物語というのがあるんだよ。竹斎というのは小説の主人公の藪医者の名さ。それを芭蕉が使って吟じたのだな。確か芭蕉だと思った」
「では私たちは男竹斎に女竹斎ですか」
「まあ、そんなところだろう」
 私たちの結婚も昂揚時代というものを見ないで、平々淡々の夫婦生活に入っていた。父はこのときもう死んでいた。
 そのときの目的は鈴鹿を越してみようということであった。亀山まで汽車で来て、それから例の通り俥に乗った。枯桑の中に石垣の膚を聳《そび》え立たしている亀山の城。関のさびれた町に入って主人は作楽井が昨年話して呉れた古老を尋ね、話を聞きながらそこに持ち合っている伊勢詣りの浅黄《あさぎ》の脚絆《きゃはん》や道中差しなど私に写生させた。福蔵寺に小まんの墓。
[#天から2字下げ]関の小まんが米かす音は一里聞えて二里響く。
 仇打《あだうち》の志があった美女の小まんはまた大力でもあったのでこういう唄が残っているといった。
 関の地蔵尊に詣でて、私たちは峠にかかった。
 満目|粛殺《しゅくさつ》の気に充ちて旅のうら寂しさが骨身に徹る。
「あれが野猿の声だ」
 主人はにこにこして私に耳を傾けさした。私はまたしてもこういうところへ来ると生々して来る主人を見て浦山《うらやま》しくなった。
「ありたけの魂をすっかり投げ出して、どうでもして下さいと言いたくなるような寂しさですね」
「この底に、ある力強いものがあるんだが、まあ君は女だからね」
 小唄に残っている間《あい》の土山《つちやま》へひょっこり出る。屋根附の中風薬の金看板なぞ見える小さな町だが、今までの寒山枯木に対して、血の通う人間に逢う歓びは覚える。
 風が鳴っている三上山の麓《ふもと》を車行して、水無口から石部の宿を通る。なるほど此処《ここ》の酒店で、作楽井が言ったように杉の葉を玉に丸めてその下に旗を下げた看板を軒先に出している家がある。主人は仰いで「はあ、これが酒店のしるし[#「しるし」に傍点]だな」と言った。
 琵琶湖の水が高い河になって流れる下を隧道に掘って通っている道を過ぎて私たちは草津のうばが餅屋に駆け込んだ。硝子《ガラス》戸の中は茶釜《ちゃがま
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