考えめぐらして居る様子だったが、突然、私の絽縮緬《ろちりめん》の単衣《ひとえ》の袖《そで》を撮《つま》んで「X女史にこんな模様は似合うな。」(X女史はX夫人だ、氏は自分とX夫人と世間が噂《うわさ》をして居るのを知らないらしい。)と決定的に云った。私は話題が変ったので先刻からの不愉快な気持ちが一寸くつろいで「あの方には無地でこの色(小豆色)だけなのが好いでしょうね。」と云った。すると麻川氏の顔に見る見る冷笑が湧《わ》いた。「あなたの主張はそうですかなあ――あなた、あの人の衣裳《いしょう》持ちにヤキモチ焼いて居ませんか。」終りの一句(これは普通の目鼻を持って居る同志が面と向って云い合う言葉では無い。氏は気違いじゃないかな。と私は咄嗟《とっさ》の場合思った)は、私、従妹、をむしろ吃驚させて氏の顔に眼を集めさせた。処が、以外にも氏の顔には、今が今、自分の口から出た言葉に吃驚《びっくり》し狼狽《ろうばい》して居る色が私達の吃驚以上に認められた。
 H屋の部屋へ帰っても私は、石でも喰《く》ったように黙りこくって、従妹《いとこ》にさえ口を利く気持になれなかった。主人が間もなくあとから帰って来て「麻川君があすこんとこ(私達の部屋と氏の部屋との境いの露地。)へ籐椅子《とういす》を持って来て腰かけてたよ。」と何気なく話したので従妹は急に勢い込んで帰りの馬車の情況を主人に話し「あの人、自分が大変なこと云っちゃったので私達が部屋でどんなに怒って話し合ってるか聞き耳たててたんでしょう。あの人よく立ち聞きする人ですもの。ヤキモチと云えばあの人こそ……いつかお姉様が、久野さんや喜久井さんのこと麻川さんの前で褒めたら、それはそれは不愉快な顔して喜久井さんや久野さんの悪口随分云ったじゃ無いの、あの人こそヤキモチヤキだわ。」私もそれに思い当った。が従妹があまりはきはき云って仕舞ったので、気持がいくらか晴れたせいか、不思議と心の底の方から麻川氏への理解がほのかに湧《わ》いて来た。「そのくせ、充分友達思いなんだけどね。」すると主人が例のゆっくりした調子で云った。「そうだよ。ああいう性分なんだよ。ふだん冷静に見せてるけど時々|末梢神経《まっしょうしんけい》でひねくれるのさ。君にだって悪意があるわけじゃ無いんだけど……。」従妹「そうよ。あの人お姉様ととてもお話も合うし仲よしなんだけど、赫子なんかに取り込められるとふとその気になるんだわ。」私もほぼ判っては居るのだけれど今頃になって涙が出て仕方がない。主人「とにかくあの人の神経にゃ君が噛《か》み切れないんだよ。そうかって君って人にはどうも無関心になり切れないらしいな。ああいった性分の人には……それで焦《じ》れてついいろんなことを云ったり仕たりしちまうんだな。」
 この時、途中、馬車から自分の宿へ降りて行った赫子がまた麻川氏の部屋へ来たらしい高声が聞えた。従妹が一寸《ちょっと》顔色を変えたのを主人は眼で制した。そして煙草《たばこ》に火をつけてから云った。「どうだい。一たん東京へ引き上げちゃあ。そして九月になってみんな帰っちまってからまた来るとしちゃ。」

 葉子はこの日記の終った大正十二年八月下旬以来、昭和二年春まで、足かけ五年も麻川荘之介氏に逢《あ》わなかった。昭和二年の早春、葉子は、一寸した病後の気持で、熱海の梅林が見度《みた》くなり、良人《おっと》と、新橋駅から汽車に乗った。すると真向いのシートからつと立ち上って「やあ!」と懐しげに声を掛けたのは麻川荘之介氏であった。何という変り方! 葉子の記憶にあるかぎりの鎌倉時代の麻川氏は、何処か齲《むしば》んだ黝《うずくろ》さはあってもまだまだ秀麗だった麻川氏が、今は額が細長く丸く禿《は》げ上り、老婆のように皺《しわ》んだ頬《ほお》を硬《こわ》ばらせた、奇貌《きぼう》を浮かして、それでも服装だけは昔のままの身だしなみで、竹骨の張った凧紙《たこがみ》のようにしゃんと上衣を肩に張りつけた様子は、車内の人々の注目をさえひいて居る。葉子は、麻川氏の病弱を絶えず噂《うわさ》には聞いて居たが、斯《こ》うまで氏をさいなみ果した病魔の所業に今更ふかく驚ろかされた。病気はやはり支那旅行以来のものが執拗《しつよう》に氏から離れないものらしい。だが、つくづく見れば、今の異形の氏の奥から、歴然と昔の麻川氏の俤《おもかげ》は見えて来る。葉子は、その俤を鎌倉で別れて以来、日がたつにつれどれ程懐しんで居たか知れない。葉子の鎌倉日記に書いた氏との葛藤《かっとう》、氏の病的や異常が却《かえ》って葉子に氏をなつかしく思わせるのは何と皮肉であろう。だが、人が或る勝景を旅する、その当時は難路のけわしさに旅愁ばかりが身にこたえるが、日を経ればその旅愁は却ってその勝景への追憶を深からしめる陰影となる。これが或る一時期に麻川荘之介氏という優れた文学者に葉子が真実接触した追憶の例証とも云えよう。
「私ずっと前から、お逢いし度《た》かったのです。」
 五年の歳月が、葉子を率直にはっきりしたものの云える女にして居た。
「僕も。」
 氏の声はまた何という心の傷手から滲《にじ》み出した切実な声になったことだろう。
「鎌倉時代に、私はもっと素直な気持で、あなたにおつき合いすれば好かったと思ってました。」
「僕も。」
「ゆっくりお打ち合せして、近いうちにお目にかかりましょうね。」
「是非そうして下さい。旅からお帰りなったら、お宅へいつ頃伺って好いか、お知らせ下さい。是非。」
 それから葉子の良人坂本とも氏はさも懐しげに話して居た。話のうちに氏が時々立てる昔のままの豪快笑いが変り果てた現在の氏の異形から出て来るのが一種|妖怪的《ようかいてき》な傷ましさを葉子に感じさせた。
 汽車が氏の転地先○○駅迄進んだ時、氏は誰かと一緒にシートから立ち上った。誰か直《す》ぐ忘れて仕舞った程葉子は氏にばかり心を奪われて居た。氏は立ち際に「あなたが二度目に××誌に書かれた僕の批判はまったく当って居ます有難かった。」と云った。それは鎌倉以後三四年たった時分葉子が××誌から書かされたもので「麻川氏はその本性、稀《まれ》に見る稚純の士であり乍《なが》ら、作風のみは大人君子の風格を学び備えて居る為めにその二者の間隙《かんげき》や撞着矛盾《どうちゃくむじゅん》が接触する者に誤解を与える。」こんな意味のものだった。葉子がより多く氏を理解して来たと自信を持ち出した頃のものだった。
 汽車から降りてはっきりした早春の外光の中に立った氏の姿を葉子は更に傷ましく見た。思わず眼をそむけた。頭半分も後退した髪の毛の生え際から、ふらふらと延び上った弱々しい長髪が、氏の下駄|穿《ば》きの足踏みのリズムに従い一たん空に浮いて、またへたへたと禿げ上った額の半分ばかりを撫《な》で廻《ま》わす。
「あ、オバ○!」
 不意の声をたてたのは反対側の車窓から氏を見た子供であった。葉子は暗然として息を呑《の》んだ。
「すっかり、やられたんだな。」
 葉子の良人も独言のように云ったきり黙って居た。

 その日の夕刻、熱海梅林の鶴《つる》の金網前に葉子は停って居た。前年、この渓流に添って豊に張られた金網のなかに雌雄並んで豪華な姿を見せて居たのが、今は素立ちのたった一羽、梅花を渡るうすら冷たい夕風に色褪《いろあ》せた丹頂の毛をそよがせ蒼冥《そうめい》として昏《く》れる前面の山々を淋しげに見上げて居る。私は果無《はかな》げな一羽の鶴の様子を観《み》て居るうちに途中の汽車で別れた麻川氏が、しきりに想《おも》われるのであった。「この鶴も、病んではかない運命の岸を辿《たど》るか。」こんな感傷に葉子は引き入れられて悄然《しょうぜん》とした。

 その年七月、麻川氏は自殺した。葉子は世人と一緒に驚愕《きょうがく》した。世人は氏の自殺に対して、病苦、家庭苦、芸術苦、恋愛苦或いはもっと漠然とした透徹した氏の人生観、一つ一つ別の理由をあて嵌《は》めた。葉子もまた……だが、葉子には或いはその全てが氏の自殺の原因であるようにも思えた。
 その後世間が氏の自殺に対する驚愕から遠ざかって行っても葉子の死に対する関心は時を経てますます深くなるばかりである。とりわけ氏と最後に逢った早春白梅の咲く頃ともなれば……そしてまた年毎に七八月の鎌倉を想い追懐の念を増すばかりである。
 また画家K氏のT誌に寄せた文章に依《よ》れば、麻川氏はその晩年の日記に葉子を氏の知れる婦人のなかの誰より懐しく聡明《そうめい》なる者としてさえ書いて居る。それが葉子の思いを一層切実にさせるというのは葉子は熱海への汽車中、氏に約した会見を果さなかった、氏と約した通り氏に遇《あ》い氏が仮りにも知れる婦人の中より選び信じ懐かしんで呉《く》れた自分が、鎌倉時代よりもずっと明るく寛闊《かんかつ》に健康になった心象の幾分かを氏に投じ得たなら、あるいは生前の氏の運命の左右に幾分か役立ち、あるいは氏の生死の時期や方向にも何等かの異動や変化が無かったかも期し難いと氏の死後八九年経た今でもなお深く悔い惜しみ嘆くからである。これを葉子という一女性の徒《いたず》らなる感傷の言葉とのみ読む人々よ、あながちに笑い去り給うな。



底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年〜1978(昭和53)年
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2001年4月3日公開
2003年5月25日修正
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