小童を手伝わして食卓を撤したあと、袖をかき合せて夜風の竹の騒ぐ音を身にしませ乍ら、田氏はなるたけ夫の感情を刺戟しないようさりげなく云った。
「ねえ、あなた。あなたもたまには洛邑にでも出てお気晴らしをなさっていらっしゃいませ、こんな田舎で長いこと毎日独で考え込んでばかり居らっしゃるのはお体の為によくありませんでしょう」
 田氏はまた燭の火に一層近づいて髪の銀|簪《かんざし》がすこし揺れるくらいの調子でつけ加えた。
「ねえ、洛邑に沙汰《さた》して置いて遜さんが次の商用で旅に出ないうちに一度是非行っていらっしゃいませ。そして久しぶりであの無邪気な麗姫にも逢ってごらんなさいませ。案外、お気持も晴れて、御勉強の道も開けて参るかも知れません」
 荘子はじっと瞳を凝らして妻の顔を見た。妻が、決して、りんきやあてこすりで麗姫に逢えと云うので無いことは判り過ぎるほど判って居た。それでも荘子は深く妻のその言葉に感謝するという単純な気持ち以外にあまりにこの女の貞淑の誂《あつら》え通りに出来上って居る、というような不思議な気持ちで妻の顔をじっと見て居た。
 夜の寝箱にとじ込められる数羽の家鴨《あひる》のしきりに羽ばたく音がしんとした後庭から聞えて来る。

 その後一ヶ月ばかりして荘子は妻の熱心なすすめ通り兼ねて沙汰して置いた支離遜からの迎えもあっていよいよ洛邑へ向けて旅立った。
 秋も末近いのでさすがに派手な洛邑の都にも一かわさび[#「さび」に傍点]がかかっていた。さしも天下に覇を称えられていた周室はすっかり衰えて形式だけの存在になったが、その都である洛邑はやっぱり長い間の繁昌の惰性もあり地理的に西寄りではあるが当時の支那の中心に位し諸国交通の衝路に当りつつ歌舞騒宴の間に説客策士の往来が行われ諸侯の謀臣と秘議密謀するの便利な場所であった。
 荘子が遜に連れられ洛邑の麗姫の館に来たのは夕暮を過ぎて居た。二人は中庭を取囲むたくさんの部屋の一つに通された。星の明るい夜で満天に小さい光芒が手を連ねていた。庭の木立は巧《たくみ》に配置されていて庭を通して互いの部屋は見透さぬようになっていた。窓々には灯がともり柳の糸が蕭条《しょうじょう》と冷雨のように垂れ注いでいた。
 二人が侍女を対手《あいて》に酒を呑み出して居るところへ「蠅翼《ようよく》の芸人」が入って来た。半身から上が裸体で筋肉を自慢に見
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