りはしないか。
かの子 ここの所|一寸《ちょっと》そういう風《ふう》な状態ですね。極《ご》く繊細《せんさい》な感覚的な拾物《ひろいもの》程度のものは一部の人の中に入って来てはいるけど。
一平 だから今じゃむしろ一般の女性の外形上の言語や服装等の上には皮相《ひそう》な新《あたら》し味《み》は非常にあるけど、内容は昔のものが地《じ》べたにならされただけのもので外形|程《ほど》の新し味が内容に於《おい》てはカルチベードされていないね。
かの子 一面から云《い》えば非常にもの分《わか》りのいい新鮮らしい女性が多い様に見えるけれど、それは近代の女性に許されている可成《かなり》の自由と、女性そのものの普遍化された新味から来る自負心《じふしん》とであって、内容そのものは真の創造や鬱勃《うつぼつ》たる熱情に乏《とぼ》しいと思います。近代の女性はなかなか巧利《こうり》的な所もあって兎角《とかく》利害の打算《ださん》の方が感情よりも先に立って利害得失を無視してどこまでも自分の感情を生かそうとする熱情の閃《ひらめき》は多くの場合に於て見られないと思いますね。この事は恋愛などに於ても。つまりしっかりした芸術作品を持ったり他の事業でも真摯《しんし》な地歩《ちほ》をかためて居《い》る女性以外には装飾《そうしょく》的な表皮《うわべ》の感情は多くひらめかして居ても本質的な真面目な熱情や感情が浅薄《せんぱく》です。或《ある》種の文学少女などことに。
一平 それは僕も同感だね。所《ところ》で西洋の文学上で近代的な女というのはどんなだい。それ何とかいう西班牙《スペイン》の無政府主義者の女ね。あれなんかどうだい。
かの子 ポール・モーランの「カタロオニュの夜」の中に現われるルメジオスですか。
一平 あれだってつまり、内容はツラディショナルな女の上に近代の主義主張をかぶせた種類の女を発見しただけなんだね。
かの子 いえ、あれは非常に垢抜《あかぬけ》した女だと思いますね。それから「トルコの夜」のヒロインはなお、とても現代の日本の女の常識的な新味はあれに較《くら》べることが出来《でき》ません。兎《と》に角《かく》現代では新しいという事が概念《がいねん》になり常識になったから少しも新しくはありません。
一平 それは実質的になったんだ。
かの子 そうです。新しい事を草履《ぞうり》を穿《は》く様《よう》にまた洋傘《よ
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