虚も、すぐまわりから歓談で埋められ、苦り切り腕組をして、不満を示している彼の存在なぞは誰も気付かぬようになった。彼の怒りは縮れた長髪の先にまでも漲《みなぎ》ったかと思われた。その上、彼を拗《こじ》らすためのように、夫人は勧められて「京の四季」かなにかを、みんなの余興の中に加って唄《うた》った。低めて唄ったもののそれは暢《のび》やかで楽しそうだった。良人の画家も列座と一しょに手を叩《たた》いている。
すべてが自分に対する侮蔑《ぶべつ》に感じられてならない鼈四郎は、どんな手段を採ってもこの夫人を圧服し、自分を認めさそうと決心した。彼は、檜垣の主人を語って、この画家夫妻の帰りを待ち捉え、主人の部屋の画室へ、作品を見に寄って呉《く》れるよう懇請した。その部屋には鼈四郎の制作したものも数々置いてあった。
彼は遜《へりくだ》る態度を装い、強いて夫人に向って批評を求めた。そこには額仕立ての書画や篆額《てんがく》があった。夫人はこういうものは好きらしく、親し気に見入って行ったが、良人を顧みていった。「ねえ、パパ、美しくできてるけど、少し味に傾いてやしない?」良人は気の毒そうにいった。「そうだなあ、味だな」鼈四郎は哄笑《こうしょう》して、去り気ない様子を示したが、始めて人に肺腑《はいふ》を衝《つ》かれた気持がした。良人の画家に「大陸的」と極《き》めをつけられてよいのか悪いのか判《わか》らないが、気に入った批評として笑窪《えくぼ》に入った檜垣の主人まで「そういえば、なるほど、君の芸術は味だな」と相槌《あいづち》を打つ苦々しさ。
鼈四郎は肺腑を衝かれながら、しかしもう一度|執拗《しつよう》に夫人へ反撃を密謀した。まだ五六日この古都に滞在して春のゆく方を見巡《みめぐ》って帰るという夫妻を手料理の昼食に招いた。自分の作品を無雑作に味と片付けてしまうこの夫人が、一体、どのくらいその味なるものに鑑識を持っているのだろう。食もので試してやるのが早手廻《はやてまわ》しだ。どうせ有閑夫人の手に成る家庭料理か、料理屋の形式的な食品以外、真のうまいものは食ってやしまい。もし彼女に鑑識が無いのが判ったなら彼女の自分の作品に対する批評も、惧《おそ》れるに及ばないし、もし鑑識あるものとしたなら、恐らく自分の料理の技倆《ぎりょう》に頭を下げて感心するだろう。さすればこの方で夫人は征服でき、夫人をして自分を認
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