いうものか父を恨まなかった。「なにしろこどものような方だったから罪はない」そしてたった一つの遺言ともいうべき彼が誕生したときいったという父の言葉を伝えた。「この子がもし物ごころがつく時分わしも老齢《とし》じゃから死んどるかも知れん。それで苦労して、なんでこんな苦しい娑婆《しゃば》に頼みもせんのに生み付けたのだと親を恨むかも知れん。だがそのときはいってやりなさい。こっちとて同じことだ、何でも頼みもせんのに親に苦労をかけるようなこの苦しい娑婆に生れて出て来なすったのだお互いさまだ、と」この言葉はとても薄情にとれた、しかし薄情だけでは片付けられない妙な響が鼈四郎の心に残された。
 はじめは寺の弟子たちも故師の遺族に恩を返すため順番にめいめいの持寺に引取って世話をした。しかしそれは永く続かなかった。どの寺にも寄食人《かかりゅうど》を息詰らす家族というものがあった。最後に厄介になったのは父の碁敵であった拓本職人の老人の家だった。貧しいが鰥暮《やもめぐら》しなので気は楽だった。母親は老人の家の煮炊き洗濯の面倒を見てやり、彼はちょうど高等小学も卒業したので老人の元に法帖《ほうじょう》造りの職人として仕込まれることになった。老人は変り者だった、碁を打ちに出るときは数日も家に帰らないが、それよりも春秋の頃おい小学校の運動会が始り出すと、彼はほとんど毎日家に居なかった。京都の市中や近郊で催されるそれを漁《あさ》り尋ね見物して来るのだった。「今日の××小学校の遊戯はよく手が揃《そろ》った」とか、「今日の△△小学校の駈足《かけあし》競争で、今迄にない早い足の子がいた」とか噂《うわさ》して悦《よろこ》んでいた。
 その留守の間、彼は糊臭《のりくさ》い仕事場で、法帖作りをやっているのだが、墨色に多少の変化こそあれ蝉翅搨《せんしとう》といったところで、烏金搨《うきんとう》といったところで再び生物の上には戻って来ぬ過去そのものを色にしたような非情な黒に過ぎない。その黒へもって行って寒白い空閑を抜いて浮出す拓本の字劃《じかく》というものは少年の鼈四郎にとってまたあまりに寂しいものであった。「雨降りあとじゃ、川へいて、雑魚《ざこ》なと、取って来なはれ、あんじょ、おいしゅう煮て、食べまひょ」継ものをしていた母親がいった。鼈四郎は笊《ざる》を持って堤を越え川へ下りて行く。
 その頃まだ加茂川にも小魚がいた
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