見てをりまして、大方|筏《いかだ》師にでも見とれてゐるのだらう、そんなに好きなら筏師になれとよく申しました」
「さうよ、ね、何故《なぜ》筏師にならなかつた? 素晴らしいぢやないの、筋肉の隆々とした筏師なんか。」
「は、ですけど、どうせ筏師は海口へ向つて行くんです。それを思ふと嫌でした。」
「海、きらひ?」
「は、海は何だかあくどい感じがします」
 直助のやうな若者には海の生命力は重圧を感じるのであらう。かの女は希臘《ギリシャ》神話がこんなにも直助の興を呼んで話させたのが不思議でかの女の河に対する神秘感が一そう深まるのだつた。
「あんた、いま、この川をどう感じて」
「――お嬢さまのお伴してゐると、川とお嬢さまと、感じが入り混つてしまつて、とても言ひ現し切れません。お嬢さまは。」
「さあ、――今は、上品な格幅のいゝ老人かも知れないわね。」
「おまへも、お読み」と言つて、かの女は直助に希臘神話の本を貸し与へた。
 かの女の食慾が、はか/″\しくなかつた。やはり青春の業かも知れない。熟した味のある食品は口へ運べなかつた。直ぐむかついた。熟した味の籠《こも》る食品といふものは、かの女に何か、かう中年男女の性的のエネルギーを連想さした。
 まだ実の入らない果実、塩|煎餅《せんべい》、浅草|海苔《のり》、牛乳の含まぬキヤンデイ、――食品目は偏《かたよ》つて行つた。かの女は、人の眼に立たぬところで、河原柳の新枝の皮を剥《む》いて、『自然』の素《す》の肌のやうな白い木地を噛《か》んだ。しみ出すほの青い汁の匂ひは、かの女にそのときだけ人心地を恢復《かいふく》さした。滋養を摂《と》らないためか、視力の弱つたかの女の眼に、川は愈々《いよいよ》、漂渺《ひょうびょう》と流れた。
 裳《も》! 陽炎《かげろう》を幾千百すぢ、寄せ集めて縫ひ流した蘆手絵《あしでえ》風の皺《しわ》は、宙に消えては、また現れ、現れては、また消える。刹那《せつな》にはためく。
 だが裳だけ見えて、河神の姿は見えないのだ。かの女はもどかしく思つて探す。かの女はいつか眼底を疲らして喪心する。美しい情緒だけが心臓を鼓動さしてゐる。
「うちの総領娘が、かう弱くては困るな。」
「体格はいゝのですから、食べものさへ食べて呉《く》れたら、何でもないのですがね。」
「直助に旨《うま》い川魚でも探させろ。」
 両親からの命令を聴いて、椽側《えんがわ》で跪《ひざまず》いた直助は異様に笑つた。両親のうしろから見てゐたかの女は身のうちが慄《ふる》へた。直助の心にも悪魔があるのか。今の眼の光りは只事《ただごと》ではない。若い土蕃《どばん》が女を生捕りに出陣するときのあの雄叫《おたけ》びを、声だけ抜いて洩《もら》した表情ではないか。直助はこれから魔力のある食べものを探して来て、それを餌《えさ》にして私を虜《とりこ》にしようとするものではないかしらん。
「直助なんかに探させなくつても」
 かの女は言つた。すると父親よりも先に直助が押へた。
「いえ、わたくしがお探しいたします。」


「白|鮠《はや》のこれんぱかしのは無いかい。」
「石斑魚《うぐい》のこれんぱかしのは無いかい。」
「岩魚《いわな》のこれんぱかしのは無いかい。」
「川|鯊《はぜ》のこれんぱかしのは無いかい。」
 魚籠《びく》を提げて、川上、川下へ跨《また》がり、川魚を買出しに行く直助の姿が見られた。川上の桜や、川下の青葉の消息が彼の口から土産《みやげ》になつて報じられた。彼は一通りそれらの報告をして、生魚の籠《かご》を主人達に見せてから女中達のゐる広い厨《くりや》に行き、買ひ出して来た魚を、自分で生竹の魚刺を削つて、つけ焼にした。
「出来ました。お喰《あが》りなさい。」
 直助は、魚の皿を運んで来る女中のうしろから、少し遠ざかつてかの女に手をついた。
 父から頼まれたとしても、何故《なぜ》、この召使はわたしにかうも熱心に食べものを勧めるのだらう。かの女は直助が父に、かの女の食べものを探すことを云ひつかつたときの異様な眼の光りを観《み》て取つた上、かういふ熱心な態度をされるので、つむじを曲げた。
「いやだと言ふのに、直助。生臭いおさかななんかは。」
「でも、ご覧になるだけでも……。」
 直助の言ひ淀《よど》む言葉には哀願に似たものが含まれてゐる。
 川魚は、みな揃《そろ》つて小指ほどの大きさで可愛《かわ》ゆかつた。とつぷりと背から腹へ塗られた紺《こん》のぼかし[#「ぼかし」に傍点]の上に華奢《きゃしゃ》な鱗《うろこ》の目が毛彫りのやうに刻まれて、銀色の腹にうす紅《べに》がさしてゐた。生れ立ての赤子の掌《てのひら》を寵愛《ちょうあい》せずにはゐられないやうな、女の本能のプチー(小さくて可愛いゝ)なものに牽《ひ》かるゝ母性愛的愛慾がかの女の青春を飛び越し
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