十八歳で女学校を出ると、その秋、都会のその明るい顔をした青年画家の妻に貰《もら》はれて行つた。
 半年ほどの交渉のうちに、若い画家は、かの女の持つ稀有《けう》の哀愁を一生|錨綱《いかりづな》にして身に巻きつけ、「真面目《まじめ》なるもの」に落付き度《た》いといひ出した。彼のやうな三代相続の都会人の忰《せがれ》は趣味に浮いて、ともすれば軽薄な香水に気化してしまふ惧《おそ》れがあつた。かの女も同じ屋の棟《むね》に住むなら、鮮かな活《い》ける陶器人形がかの女の憂鬱《ゆううつ》には調和すると思つた。
 兄は云つた。
「これが愛といへるだらうか。」
 父は黙つてゐた。
 母は賢かつた。
「この子は、どうせ誰かに思ひ切つて宥《なだ》めたり、賺《す》かされたりしなければ、いのち[#「いのち」に傍点]の芽を吹かない子なのです。けれどもまた、あんまり手荒く、宥めたり賺かしたりする相手では、却《かえ》つて芽を拗らせてしまふといふこともありませう。私はあの人ならちやうどいゝ相手だと思ふんですが。」
 腕組してゐた父は眼を開いていつた。
「よし、よし、直助を呼びなさい。川に仮橋をかけることにしよう。嫁入りの俥《くるま》を通す橋を」


 直助は毎日仮橋の架設工事の監督に精出してゐた。秋も末に近く、瀬は殆《ほとん》ど涸《か》れてゐた。川上の紅葉が水のまにまに流れて来て、蛇籠《じゃかご》の籠目や、瀬の縁《ふち》に厚い芥《あくた》となつて老いさらばつてゐた。
 近い岸より、遠い山脈が襞目《ひだめ》を碧落《へきらく》にくつきり刻み出してゐた。ところどころで落鮎《おちあゆ》を塞《ふさ》ぐ魚梁《やな》の簾《す》に漉《こ》される水音が白く聞える。
 結び慣れてゐた洋髪から島田|髷《まげ》に結ひ直すために、かの女は暫《しばら》く髪癖を直す手当てをしなければならなかつた。かの女は部屋に籠《こも》つて川にも人にも遇《あ》へなかつた。直助には障子《しょうじ》越《ご》しに一度声をかけた。
「川はどう?」
「こゝのところ川は痩《や》せてをります。」
 直助の言葉は完全に命令|遵奉《じゅんぽう》者の無表情に還《かえ》つてゐた。直助は思ひ出したやうにある朝自分の部屋から取つて来て、障子をすこしあけて希臘《ギリシャ》神話をかの女に返して行つた。
 直助が河に墜《お》ちて死んだのは、かの女が嫁入つてから半月ばかり後の夜のことであつた。土地の人たちは直助が過《あやま》つて河へ墜ちて死んだと信じ切つてゐるやうだ。かの女もさう信じた。けれども、かの女は二十何年後の昨日、ふと直助が返した希臘神話の本の頁《ページ》の間から、思ひがけなく彼が書いた詩のつもりらしい、埃《ほこり》で赤腐れた紙片を発見した。直助が自分で河へ身を投げて死んだのではないかといふ疑念を急にかの女は起したのである。

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お嬢さま一度渡れば
二度とは渡り返して来ない橋。
私も一度お送り申したら
二度とは訪ねて行かない、橋
それを、私はいま架けてゐる。
いつそ大水でもと、私はおもふ
橋が流れて呉《く》れゝばいゝに
だが、河の神さまはいふ
橋を流すより、身を流せ。
なんだ、なんだ。
川は墓なのか。
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 その夜かの女は何年か振りで川の夢を見る。
 一面の大雪原である。多少の起伏はある。降雪のやんだあとの曇天で、しかもまたその後に来る降雪を孕《はら》んだ曇天である。一面に拡く重い地上の大雪原の面積と同じ広さの曇天の面積である。曇天の面にむら[#「むら」に傍点]がある。地上の大雪原の面にも鉛色めいたかげり[#「かげり」に傍点]と漂雪白の一面とが大きいスケールのむら[#「むら」に傍点]をなしてゐる。
 ――一面に広い大雪原である。真只中《まっただなか》を細い一筋の川――だが近よつて見ると細くはない。大河だ。大雪原の大面積が大河を細く劃《くぎ》つて見せてゐたのである。いつか私はその岸をとぼ/\と歩いてゐた。男の猟人《かりゅうど》の姿に私はなつてゐた。葦《あし》がほんのわづかその雪原にたゞそれだけの植物のかすかな影をかすかに立ててちらほらと生えてゐた。その葦を折りながら、私は鉄砲を背負つて歩いてゐた――だが、その猟人の姿はやつぱり私でなくつて直助だつたのだ。私の姿はその時どういふ恰好《かっこう》で大雪原のどの辺にゐたか知れないのだ。私にはだん/\私の姿や位置は意識されず、猟人姿の直助がのつしのつし[#「のつしのつし」に傍点]と、前こごみに歩いてゐるばかりしか眼にとまらなくなつた――が、またも私の眼に見え出したものがある。直助の歩みと同列同速力で、川のやゝ岸近に筏《いかだ》が流れてゐたのだ。筏は秩父の山奥から流れて来たものだと私は意識した。きれいに皮をはいで正確の長方形に截《き》つた楓《かえで》
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