から表からしつこく見ようとするこの国の上流社会はうるさいばかりでなくわたしの心の皮膚を荒した。わたしは心の皮膚を大事にする。前侯爵夫人の名とヴァン・ドンゲンが描いたわたしの肖像をアンナに残してわたしはとう/\亜米利加から巴里へ帰つた。久しぶりで巴里へ帰り着いたとき例のめつたにこぼれないわたしの涙が出た。わたしの滅びの最後を待ちうけてゐてくれる所は巴里よりほかに無い筈《はず》だつた。アンナとはポトマック河べりの散歩の途中で別れたのだ。
『さやうなら、ではその傘《かさ》を頂戴《ちょうだい》。』
これがアンナが訣《わか》れる最後に私に云つた言葉だつた。わたしは脇の下に挟んだ彼女の七色織の日傘の畳目にキッスして彼女に返した。彼女は威勢よくその日傘を拡げると手を愛想に振りながら待たしてあつたモーター・ボートに乗つた。浪《なみ》が揺れた。それきりわたしは彼女に会はない。噂《うわさ》によるとちかごろ彼女は欧羅巴《ヨーロッパ》の小国のプランセスの位置を狙《ねら》つてゐるさうだ。これがこのごろ金のある亜米利加女の発達した慾望ださうだ。
わたしは芸術を愛した。ずゐぶん芸術家を保護した。しかし、いくら世辞ですすめられても素人《しろうと》のくせに俳優を指揮したり俳優の本読みするやうな猪口才《ちょこざい》な真似《まね》は決してしなかつた。それといふのもわたしに一つの自信があつたからだ。わたしはさういふことを勧める人にかう答へた。『わたしも立派な芸術を持つてゐますよ。とてもあなた方にお出来になりますまい。それは消費の芸術といふものです。』するとその人は余儀なささうにうなづくのであつた。しかし、なほうなづきかねた人にはわたしはかう説明した。『わたしは金のある十一年間に一さい偶然の力を藉《か》りずにほぼ見込みどほりわたしの運命を表現しました。たぶんわたしはリアリズムの大家でせう。酔はずに零落の途《みち》を見詰めて来た勇気の点に於てね。』ここまで言ひ切れば大概の人は返す言葉が無かつた。
事実、わたしは滅びる目的に成功してこの古い由緒ある家も、愛する広い庭も完全に人手に渡つてゐる。わたしに残つてゐるものはグレー・ハウンドの犬一|疋《ぴき》と紋章旗だけだ。わたしの肉体とても婦人の病気以外には殆《ほとん》どあらゆる病の餌食《えじき》として与へてしまつたと云つても宜《よ》い。わたしの待つた消滅の薫りが馥郁《ふくいく》としてわたしの骨に匂ひ出した。わたしは生涯働かなかつたといふことを思ひ出に漂ふ空無《リヤン》の海に紫の海月《くらげ》となつて泳ぎ出るのだ。完成された階級にただ一つ残つた必至の垣を今こそ躍《おど》り越えるのだ。日よ、月よ、森よ、化粧の女よ。さらば――わけて、アンナと巴里にはよろしく――。」
つひに張り詰めたボニ侯爵の声はのんびり日常生活と番《つが》ひ始めた巴里の昼まへの時間に対して調和が取れなかつた。けれどもその声があまりに真剣なので自殺でもするのかと思へばさうはしなかつた。彼は朝の気分の宜《よ》い時に毎日かうして遺言の練習をするのであつた。彼は犬小屋できゆう/\鳴いてゐるグレー・ハウンドを引出してちよつとブラシュをかけ、それからそれを連れて牛乳を買ひに街へ出た。彼の足は蓮根《れんこん》のやうに細つてゐるがまだ歩調はしつかりして居る。庭門をくぐるとき彼は思ひ出したやうにまた云つた。
「フランス貴族といつても本物と擬《まが》ひとあることを弁《わきま》へて貰《もら》ひたいものだ。一つはわれ/\のやうな由緒ある正銘の貴族《エミグレ》だが、一つはナポレオンがむやみに製造した田舎《いなか》貴族だ。こいつらの先祖は百姓か職人だからその子孫も握手して見れば判る。掌《てのひら》に胼胝《たこ》の痕《あと》が遺《のこ》つてゐるさ。」
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年発行
初出:「改造」
1932(昭和7)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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