やりました。私はみんなに眼を瞑《つぶ》って居て貰って、カチューシャを声を顫わせない日本流に唱った。すると青年の方が、それは露西亜風《ロシアふう》だと言った。流石音楽国の独逸《ドイツ》人だと感心しました。それから私は今度は純日本の歌だと証明して置いて「どんと、どんとどんと、濤乗り越えて―」を唱った。すると壮年の方はまた言いました。
 ――それはお嬢さん、男の学生風の歌ですね。私のお望みするのは、日本の女の……つまりお嬢さん方が平生おうたいになる歌です。」
 ああそうかと、私は心にうなずいて今度は尚々、単純な声調で、
 さくら、さくら、弥生の空は、見渡す限り。かすみか雲か、においぞ出ずる。いざや、いざや、見に行かん。
 と唄って聞かせた。彼等は嬉んで立上った。何という上品で甘やかなメロデーだと賞めそやしました。「仲間にも話して聞かせる」と御礼を言いながら工事道具を肩にかけた。そしてひとしく雪のどんどん降りしきる窓の外に眼をやりながら玄関の扉の方へ出て行った。と、
 今迄無口だった青年が立ちどまって更めて私に懇願の眼を向けました。
 ――切手を、日本の郵便切手を一枚下さい。世界中のを集めています」
 と言うのでありました。激しい労働生活で節くれ立った彼の愛すべき掌へ、私は故国から来た親愛なる手紙の封書の切手を何枚もはがして乗せてやりました。



底本:「世界紀行文学全集 第七巻 ドイツ編」修道社
   1959(昭和34)年8月20日発行
入力:門田裕志
校正:田中敬三
2006年3月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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