しているところもある。川幅の大半を埋めている小石の大河原にも若草の叢《くさむら》の色が和みかけている。
 動きの多い空の雲の隙間《すきま》から飴色《あめいろ》の春陽が、はだらはだらに射《さ》し下ろす。その光の中に横えられたコンクリートの長橋。父が家霊に対して畢生《ひっせい》の申訳に尽力して架した長橋である。
 父の棺輿はしばし堤の若草の上に佇《たたず》んで、寂寞《せきばく》としてこの橋を眺める。橋はまた巨鯨の白骨のような姿で寂寞として見返す。はだらはだらに射《さ》し下ろす春陽の下で。
 なべて人の世に相逢《あいあ》うということ、頷《うなず》き合うということ、それ等は、結局、この形に於てのみ真の可能なのではあるまいか。寂寞の姿と無々《むむ》の眼と――。
 何の生もない何の情緒もない、枯骨と灰石の対面ではあるが、いのち[#「いのち」に傍点]というものは不思議な経路を取って、その死灰の世界から生と情緒の世界へ生れ代ろうとするもののようである。わたくしが案外、冷静なのに、見よ、逸作が慟哭《どうこく》している激しい姿を。わたくしが急いで近寄って編笠《あみがさ》の中を覗《のぞ》くと、彼はせぐり上げせぐり上げして来る涙を、胸の喘《あえ》ぎだけでは受け留めかねて、赤くした眼からたらたら流している。わたくしは逸作のこんなに泣いたのを見るのは始めてだった。わたくしは袖《そで》から手巾《ハンケチ》を出してやりながら、
「やっぱり、男は、男の事業慾というものに同情するの」
 と訊《き》くと、逸作は苦しみに締めつけられたように少し狂乱の態とも見えるほどあたり関わず切ない声を振り絞った。
「いや、そうじゃない。そうじゃない」
 そして、わたくしの肩をぐさと掴《つか》み、生唾《なまつば》を土手の若草の上に吐いて喘ぎながら言った。
「おやじが背負い残した家霊の奴め、この橋くらいでは満足しないで、大きな図体の癖に今度はまるで手も足もない赤児のようなお前によろよろと倚《よ》りかかろうとしている。今俺にそれが現実に感じられ出したのだ。その家霊も可哀《かわい》そうならおまえも可哀そうだ。それを思うと、俺は切なくてやり切れなくなるのだ」
 ここで、逸作は橋詰の茶店に向って水を呼んで置いてから、喘ぎを続けた。
「俺が手の中の珠にして、世界で一番の幸福な女に仕立ててみようと思ったお前を、おまえの家の家霊は取戻そうとしているのだ。畜生ッ。生ける女によって描こうとした美しい人生のまんだら[#「まんだら」に傍点]をついに引裂こうとしている。畜生ッ。畜生ッ。家霊の奴め」
 わたくしの肩は逸作の両手までがかかって力強く揺るのを感じた。
「だが、ここに、ただ一筋の道はある。おまえは、決して臆《おく》してはならない。負けてはならないぞ。そしてこの重荷を届けるべきところにまで驀地《まっしぐら》に届けることだ。わき見をしては却《かえ》って重荷に押し潰《つぶ》されて危ないぞ。家霊は言ってるのだ――わたくしを若《も》しわたくしの望む程度まで表現して下さったなら、わたくしは三つ指突いてあなた方にお叩頭《じぎ》します。あとは永くあなた方の実家をもあなた方の御子孫をも護《まも》りましょう――と。いいか。苦悩はどうせこの作業には附ものだ。俺も出来るだけ分担してやるけれどお前自身決して逃れてはならないぞ。苦悩を突き詰めた先こそ疑いもない美だ。そしてお前の一族の家霊くらいおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]で、美しいものの好きな奴はないのだから――」
 読書もそう好きでなし、思索も面倒臭がりやの逸作にどうして、こんないのち[#「いのち」に傍点]の作略に関する言葉が閃《ひら》めき出るのであろうか。うつろの人には却っていのち[#「いのち」に傍点]の素振りが感じられるものなのだろうか。わたくしはそれにも少し怖《おそ》れを感じたけれども、眼の前の現実に襲って来た無形の大磐石のような圧迫にはなお恐怖を覚えて慄《ふる》え上った。思わず逸作に取縋《とりすが》って家の中で逸作を呼び慣《なら》わしの言葉の、
「パパウ! パパウ!」
 と泣き喚く顔を懸命に逸作の懐へにじり込ませていた。
「コップを探してましたもんでね、どうも遅くなりました」と、言って盆に水を運んで来た茶店の老婆は、逸作が水を飲み干す間、二人の姿をと見こう見しながら、
「そうですとも、娘さんとお婿さんとでたんと泣いてお上げなさいましよ。それが何よりの親御さんへのお供養ですよ」
 と、さもしたり[#「したり」に傍点]顔に言った。
 他のときと場合ならわたくしたちの所作は芝居|染《じ》みていて、随分妙なものに受取られただろうが、しかし場合が場合なので、棺輿の担ぎ手も、親戚《しんせき》も、葬列の人も、みな茶店の老婆と同じ心らしく、子供たち以外は遠慮勝ちにわたくしたちの傍
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