くしの手の甲に出来ている子供らしいおちょぼ[#「おちょぼ」に傍点]の窪《くぼ》みを押したり、何か言うことのませ方[#「ませ方」に傍点]と、することの無邪気さとの間にちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]なところを見せていたが、ふと気がついたように逸作の方へ向いた。
「おにいさん――」
 しかしその言葉はわたくしに対して懸念がありと見て取るとかの女は「ほい」といって直《す》ぐ、先生と言い改めた。
「先生。何か踊らなくてもいいの。踊るんなら、誰か、うちで遊んでる姐さんを聘《よ》んで欲しいわ」
 そう言ってつかつかと逸作の方へ立って行った。煙草《たばこ》を喫《す》いながらわたくしと雛妓との対談を食卓越しに微笑して傍観していた逸作は、こう言われて、
「このお嬢さんは、売れ残りのうちの姐さんのためにだいぶ斡旋《あっせん》するね」
 と言葉で逃げたが、雛妓はなかなか許さなかった。逸作のそばに坐ったかの女は、身体を「く」の字や「つ」の字に曲げ、「ねえ、先生、よってば」「いいでしょう、先生」と腕に取り縋《すが》ったり髪の毛の中に指を突き入れたりした。だがその所作よりも、大きな帯や大きな袖に覆われてはいるものの、流石《さすが》に年頃まえの小娘の肩から胴、脇《わき》、腰へかけて、若やいだ円味と潤いと生々しさが陽炎《かげろう》のように立騰《たちのぼ》り、立騰っては逸作へ向けてときめき縺《もつ》れるのをわたくしは見逃すわけにはゆかなかった。わたしは幾分息を張り詰めた。
 逸作の少年時代は、この上野谷中切っての美少年だった。だが、鑿《う》ち出しものの壺《つぼ》のように外側ばかり鮮かで、中はうつろに感じられる少年だった。少年は自分でもそのうつろに堪えないで、この界隈《かいわい》を酒を飲み歩いた。女たちは少年の心のうつろを見過ごしてただ形の美しさだけを寵《ちょう》した。逸作は世間態にはまず充分な放蕩児《ほうとうじ》だった。逸作とわたくしは幼友達ではあるが、それはほんのちょっとの間で、双方年頃近くになり、この上野の森の辺で初対面のように知り合いになったときは、逸作はその桜色の顔に似合わず[#「似合わず」は底本では「似わず」と誤植]市井老人のようなこころになっていた。わたくしが、あんまり青年にしては晒《さら》され過ぎてると言うと、彼は薩摩絣《さつまがすり》の着物に片手を内懐に入れて、「十四より酒飲み慣れてきょうの月です」と、それが談林の句であるとまでは知らないらしく、ただこの句の捨《な》げ遣《や》りのような感慨を愛して空を仰いで言った。
 結婚から逸作の放蕩《ほうとう》時代の清算、次の魔界の一ときが過ぎて、わたくしたちは、息も絶え絶えのところから蘇生《そせい》の面持で立上った顔を見合した。それから逸作はびび[#「びび」に傍点]として笑いを含みながら画作に向う人となった。「俺は元来うつろの人間で人から充《み》たされる性分だ。おまえは中身だけの人間で、人を充たすように出来てる。やっと判った」とその当時言った。
 それから十余年の歳月はしずかに流れた。逸作は四十二の厄歳も滞りなく越え、画作に油が乗りかけている。「おとなしい男、あたくしのために何もかも尽して呉《く》れる男――」だのにわたくしは、何をしてやっただろう。小取り廻《まわ》しの利かないわたくしは、何の所作もなく、ただ魂をば、愛をば体当りにぶつけるよりしかたなかった。例えそれを逸作は「俺がしたいと思って出来ないことを、おまえが代ってして呉れるだけだ」と悦ぶにしても、ときには世の常の良人《おっと》が世の常の妻にサービスされるあのまめまめしさを、逸作の中にある世の常の男の性は欲していないだろうか。わたくしはときどきそんなことを思った。
 酒をやめてから容貌《ようぼう》も温厚となり、あの青年時代のきらびやかな美しさは艶消《つやけ》しとなった代りに、今では中年の威がついて、髪には一筋二筋の白髪も光りはじめて来ている。
 わたくしは、その逸作に、雛妓《おしゃく》が頻《しき》りにときめかけ、縺《もつ》れかけている小娘の肉体の陽炎《かげろう》を感ずると、今までの愁いの雲はいつの間にか押し払われ、わたくしの心にも若やぎ華やぐ気持の蕾《つぼみ》がちらほら見えはじめた。それは嫉妬《しっと》とか競争心とかいう激しい女の情焔《じょうえん》を燃えさすには到らなかった。相手があまりにあどけなかったからだ。そしてこちらからうち見たところ多少腕白だったと言われるわたくしの幼な姿にも似通える節のある雛妓の腕働きでもある。それが逸作に縺れている。わたくしはこれを眺めて、ほんのり新茶の香りにでも酔った気持で笑いながら見ている。雛妓は、どうしてもうんと言わない逸作に向って、首筋の中へ手を突込んだり、横に引倒しかけたりする。遂《つい》に煩しさに堪え兼ねた逸作
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