、まつたく話にもならぬほんの間に合せの小屋に過ぎなかつた。彼は投げた気持の中にも怒りを催さないでは居られなかつた。――七十年も生きた末がこれか、と。しかし、すぐにその怒りを宥《なだ》めて掌《てのひら》の中に転《ころば》して見る、やぶれかぶれの風流気が彼の心の一隅から頭を擡《もた》げた。彼は僅《わず》かばかりの荷物のなかを掻《か》き廻して、よれた麻の垂簾《すいれん》を探し出した。垂簾には潤《うるお》ひのある字で『鶉居《うずらい》』と書いてあつた。彼はその垂簾の皺《しわ》をのばして、小屋の軒にかけた。
 彼は十七八年前、五十五歳のときに家族と長柄《ながら》川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に入つた住家だつた。彼はその時、家族を背負つたまま十数度も京摂の間に転宅して廻つたので、住家の安定といふことには自信が無くなつてゐた。自信を失ひながらなほ安定した気持になりたかつたので、その垂簾を軒にかけたのだつた。『鶉居』と書いたのは鶉《うずら》は常居なし、といふいひ慣《ならわ》しから思ひついた庵号《あんごう》だつた。
 さうした字のある垂簾をかけた小さい自分の家を外へ出て顧りみると、世界にたつた一つ住み当てた自分の家といふ気がして、そのとき、もはや老年にいりかけて居た彼は、こどものやうになつて悦《よろこ》んだ。しかし、その悦びも大して長く続かず、六年目には垂簾を巻いて京都へ転居したのをきつかけに、再び住居の転々は始つた。
 垂簾はかなりよごれてゐた。秋成は長柄の住家ではじめてそれをかけたと同じやうに外へ出て眺め返してみた。小庵は新しいので垂簾のよごれは目立つた。彼は住居に対する執著《しゅうちゃく》の亡霊がまだ顔をさらしてゐるやうで軽蔑《けいべつ》したくなつた。しかし、いくら運命が転居させたがつても、もうさうはおれの寿命は続かなからう。今度こそはおれは一つの家に住み切つてしまふのだ。さう思ふと痛快な気がして==ざま見い。と彼は垂簾に向つて云つた。そしてその気持を妻の瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]尼に話したくなつた。==瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]よ。いまだけでいい。ちよつと話し相手に墓場から出て来んかい。
 彼はもしこの小屋なら妻はいつも其処《そこ》に起き暮しするだらうと思ふ、小箱程の次の間に向
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