あつたのを、出世したから堪《たま》らない。すつかり身体をこはし、せん頃久しぶりに見舞つたら、樽詰《たるづ》めの不如法のさらし者を見るやうに衰弱して居た。しかも、それで居ながら酒の肴《さかな》は豆腐か、つくしにかぎるなどと、まだ食気のことを云つて居た。岸駒が俗慾の奢《おご》りを極め、贅沢《ぜいたく》な普請をして同功館などと大そうもない名をつけたのも癪に触つた。絵は、書典と功が同じである、それで画屋は同功館であるといふいはれださうだ。変なつけ上り方をすればするものだ。
 かういふ不平を続けて込み上らせて来ると秋成は、骨格の太さに似合はず少量な血が程よく身体を循環して、ぽつと心に春めくものを覚えるのだつた。眼瞼《がんけん》がぴくぴく痙攣《けいれん》するのも一つの張合ひになつて来た。湯鑵の湯はすつかり沸き切つて、むやみにぐらぐらひつくりかへつてゐるが彼はかまはなかつた。それよりもこの場合、肉体的に何か鋭い刺戟《しげき》を受けて興奮した、いまの気持を照応せしめたかつた。そこで湯鑵の熱い膚《はだ》に指の先きを突きつけた。痛熱い触覚が、やや痺《しび》れてゐる左の手の指先きに噛《か》みつくと、いはうやう無い快感が興奮した神経と咄嗟《とっさ》に結びつき、身体中がせいせいと明るくされるやうである。彼はこの分ならまだ五六年は生き堪へられるぞと、心中で呼ぶのだつた。彼は左の手の中で一本湯鑵の胴に触らないで痺れたままの感覚で取残されてゐる例の疱瘡《ほうそう》で短くなつてゐた人差指をも、公平にこの快味に浴させようと、他の四本の指を握り除け、片輪な指だけ、湯鑵の胴にぢりりと押つけた。甘美な疼痛《とうつう》がこの指をも見舞つた。いつそこの指を火にくべて、われとわが生命の焼ける臭ひを嗅《か》いだらどれほどこころゆくことだらう。
 気持が豪爽《ごうそう》になつて来るとまだまだ永く生きられさうな気がし出した。むしろ、これからだといふ気さへし出した。==人間はいつまでたつても十七八の気持は残つてゐる、と若いたいこ[#「たいこ」に傍点]持ち茶人の宗了といふ男が、自分に体験もないくせに、誰に聴いたものか、かう云つたのを覚えて居る。その若いたいこ[#「たいこ」に傍点]持ち茶人の宗了だが、彼が茶番をして、千鳥の役を引受けて酒席へ出たことがあつた。美男のうへ、念入りの化粧をしたので、芸子女中まで見惚《みと》れるくら
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