も知らずに「くすん」と微笑んだ。思いがけない表情に両親と姉の静子はこれを見て患者が最期に頭がどうかなるのだと思った。母親は慄えて念仏を唱えている。みな思わずにじり寄って政枝の顔を見詰めた。多可子は絶体絶命の気持ちで袖を掻き合わせ、眼を瞑《つむ》っていた。すぐ表通りをハッキリと、
「歓呼の声に送られて
今ぞ出《い》で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと」
若く太い合唱の声が空気を揺がせて過ぎる。その時政枝の暗く消え散る意識の中に一筋鋭く残った知覚が、こんなことを感じていた――みんな勇ましく行く、そしてそれは勝つためにだ。自分も――
刹那《せつな》だがもうその後は政枝の魂は生死を越えて冴えた明月の海に滑らかに乗っていた。
政枝の唇が青紫に色あせつつぴたぴた唾《つば》の玉を挟んで開け閉している。微《かす》かに声を出しているようだ。だが、それは多可子がひそかに怖れていた「おばさん一緒に死んで」という政枝の言葉ではなかった。多可子はありたけの気力を集中して耳を近くへ寄せた。政枝の声は
「――――
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば」――――微かに唄っているようだ……。
多可子の胸へ渾身《こんしん》の熱い血がこみ上げて来た。多可子は政枝の亡骸《なきがら》に取りすがって涙と共に叫んだ。
「政ちゃん、安心して行って下さい。――あたしあんたと二人分生きる苦るしみと戦い――戦い――戦い――」
あとは泣き声で言葉にまとまりがなかった。
底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年3月〜1978(昭和53)年3月
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年12月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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