さやぐからに出《い》でて見ればしんと桜が咲き居《ゐ》たるかも

塔《たふ》の沢のいかもの店に女唐《めたう》停《た》ちその向《むか》つ峰《を》の桜花《はな》盛りなり

いかものを女唐買ひたりその女唐箱根の桜花《はな》の下みちを行く

わがままはやめなとぞおもへしかはあれ春さり来れば桜さきけり

桜花《はな》の山は淡墨《うすずみ》いろに暮れにけり大烏《おほがらす》一羽ひつそり帰る

大暴風《おほあらし》うすずみ色の生壁《なまかべ》にさくら許多《ここだ》くたたきつけたり

ここにして桜|並木《なみき》はつきにけり遠浪《とほなみ》の音かそかにはする

桜花《はな》の山はうしろに高し見はるかす淡墨いろのたそがれの海

いそがはしく吾《われ》を育ててわが母や長閑《のど》に桜も見で逝《ゆ》きませしか

十年《ととせ》まへの狂院《きやうゐん》のさくら狂人《きちがひ》のわれが見にける狂院のさくら

狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくら

狂人《きちがひ》よ狂人《きちがひ》よとてはやされき桜花《さくら》や云《い》ひし人間《ひと》や笑ひし

ふたたびは見る春|無《な》けむ狂人《きちがひ》のわれに咲きけむ炎の桜

わが夫《つま》よ十年《ととせ》昔のきちがひのわが恐怖《おそれ》たる桜花《はな》あらぬ春

ねむれねむれ子よ汝《な》が母がきちがひのむかし怖れし桜花《はな》あらぬ春

人間の交友《まじわり》のはてはみな儚《はか》な桜見つつし行きがてぬかなし
[#地付き](来よと宣《の》らせる佐藤春夫氏に厚く謝しつつ)
桜花《はな》あかり廚《くりや》にさせば生魚《なまざかな》鉢《はち》に三ぼん冴《さ》えひかりたり

生ざかな光りて飛べりうす紅《べに》の桜の肌の澄《す》みの冷たさ



底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
※「椽《えん》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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