ったり漕ぎ通ったりしているいくつかの川や堀割の岸を、俥で過ぎて、細い河岸の大木の柳の蔭の一軒の料理屋へ、青年は俥をつけさせた。
「ここは橋本という昔から名代の料理屋です」
かの女は、峠のように折れ曲り、上ったり下ったりする段梯子を面白いと思った。案内された小座敷の欄干は水とすれすれだった。青み淀んだ水を越して小さい堤があり、その先は田舎になっていた。
「いいところですね。草双紙の場面のよう」
「お気に入って結構です。きょうは悠《ゆ》っくり寛《くつろ》いで下さい。うちも同然の店ですから」
かの女はふと疑問が起った。
「あなた、お料理店の息子さん?」
「違います。だが、まあ、客商売というところは同じですね」
名物鯉の洗い、玉子焼、しじみ汁――。かの女は遠慮なく喰べながら、青年の生家でありそうな客商売の種類をいろいろと考え探って見た。
「判りませんわ。あなたのお家の商売――」
「さあ、云ってもいいが、云わない方が感じがいいでしょう。兎《と》に角《かく》、女親とあとは殆ど女だけしかいないような家なのです」
かの女は「まあ」と云って、それより先|訊《き》き質《ただ》す勇気はなかった。
すると青年は却《かえ》って不満らしく、喰べものの箸の手を止めて、いつになく真面目に語り始めた。
女ばかりで客商売をする家に育った青年は、子供のうちから女という女の憂いも歎きも見すぎて来た。自分の見て来た女達が同じように辛い運命から性《しょう》を抜かれた白々しさ。そういう女性のなかに育った青年の魂は、いつか人生を否定的にばかり見るようになった。あらゆる都会の文化も悦楽も青年の魂を慰めなかった。年少から酒を嗜《たしな》むようになったのも、その空虚な気持ちを紛らすためと云ってよかった。
「だが不思議ですね。それほど女性の陰に悩まされた自分でありながら、さて女性に離れて仕舞《しま》うことになると、まるでぽかんとして仕舞うのですね」
それは恰度《ちょうど》菓子造りの家の者が菓子に飽き飽きしながら、絶えず糖分を摂取せずにはいられないようなものではなかろうか。
「菓子造りの家の者が砂糖の中毒患者というなら、僕は女性の中毒患者とでもいうべきでしょう」
青年は苦笑した。
早く死んだ青年の父は、天才の素質を帯びている不遇な文人画家であった。その血筋は息子の青年に伝えられた。
「僕にはこれで高邁《こうまい》な美を望む性格も、それを執拗に表現しようと努力する根気もあるんです。だが、その気概に邁進しようとすると、すぐ蝕まれている一面が意識されて、崩折れて仕舞うんです。結局、何も彼も白々しくてつまらなくなるんです。その自分の内部の矛盾や葛藤でますます僕の精神は欠陥を生じ、だんだん蝕まれて行く………
僕の世界は白々と寂しいものになるばかりでした。僕はあなたに訳の判らぬことを嘆きました。随分勝手なお喋りもしました。それが結局僕の精神的血行を促したのでしょうね。おかげで僕の一方の精神が強まり、僕の精神がどうやら盛り上って来ました」
「まあ――だけど、私、それ程あなたに何も云ってはさしあげませんでしたわ」
「沢山おっしゃらない中から、僕はちゃんと拾ってます……。あなたがいつぞや、何の気なしに話して下さった『地によって倒れるものは地によって立つ』という言葉は本当です。女性によって蝕ばまれたものは、女性によってのみ癒やされるんですね。僕は、あなたの病的に内気なところを懐しんで近づいて行ったのですが、不思議ですね。それは表面だけで、あなたの蘂には男を奮い起さすような明るい逞ましいものがあるんです」
「でもあなたは素焼の壺と素焼の壺が並んだような、あっさりした男女の交際が欲しいと仰ったでしょう」
「ああ、そうでしたね。あの時分僕は実はあの反対な――積極的な生命的な女性との接触を求めていながら、つい一方の蝕まれた性格が、ああいうことを云わしたんですね。僕はあんなことを云いながら、ぐんぐんあなたの積極的な処に牽かれて……こんな言葉を許して下さい……」
「でも私は積極的でしょうか」
「熱情があんまり清潔すぎて醗酵しないから、病的な内気の方へ折れ込んで仕舞うのでしょう。あなたの兄さんもそういう方だ」
「では兄におつき合いになっただけであなたはよかったではありませんか」
「兄さんともそれで仲好しでした。兄さんは僕の変に性《しょう》の抜けたようなニヒリスチックなところが、鬱屈した性質を洗滌されるようで好きだったのだな」
「そう云いました。私にもだからおつき合いしてごらん、気持ちがさっぱりして薬になるよって、あなたを紹介して呉れました」
「あはは……お互に換気作用を計画しておつき合いし始めたんですか……あははは……近代人の科学的批判的意識が友情にまで、そこまで及べば徹底してますね」
「でも兄はあなたを『素焼の壺』のようなあっさりした方と云いましたけど……私はそれ以上あなたにお目にかかっていると、しん[#「しん」に傍点]と寂しさが身に迫るようでした。時々堪らなく寒くなるような感じをうけます」
「男性と女性の相違ですよ。兄さんとあなたと僕に対する感じ方の違うというのは」
「何がですか」
「だから僕は女性でなくては……と云ったでしょう」
「…………」
かの女はあまり唐突にその言葉を聞いたように感じた。だがよく考えれば、青年がいつも女性でなければと云っていたことを、今また思い出した。
「僕はやっぱり女性の敏感のなかに理解がしっとり緻密に溶け込んでいるのでなければ、淋しい男性にとってほんとうの喜びではないと思うんです。兄さんは僕を多少ニヒリストで素焼の壺程度にさらりとした人間と解釈したに過ぎないが、あなたはそれ以上、僕に鬱屈している孤独的な寂しさまで感じわけて下さったでしょう……女性の本当に濃かいデリケートな感受性へ理解されることが、僕の秘かな希望だったんだな……」
「でもあなたは素焼の壺が二つ並んだような男女の交際が欲しいと仰ったでしょう」
「またそれが出ましたね。どうも素焼の壺が頻々《ひんぴん》と出て来ますね。あれは僕自身も僕を素焼の壺程度に解釈していた時分云ったことですよ。僕は実は大変な鬱血漢でしたよ」
「割合いに刺戟的な方だと思うわ」
「ばあやのお喋りがはいらないんで、今日はあなたがよくお話しになる、僕の本望だな。あれはね、僕、今でもそう思ってますが――つまり、すぐ恋愛になるような、あり来りの男女の交際は嫌だと思ってましたから、それがああいう言葉で出たんですが……」
この青年は非常にエゴイズムなのではないかと、ふとかの女は思った。
でなければ、それ以上に抜け切った非常に怜悧な男なのではないかとも思った。
でもこう話しているうちに、決して男性の体臭的でない明るいすがすがしい気配が、青年の顔色や態度に現われて来た。かの女は、もしその気配に自分の熱情が揺がされでもしたら、自分が何か非常に卑しい軽率な存在にでも見えだすかも知れない――そう思うとかの女はかすかなうそ[#「うそ」に傍点]寒いような慄えに全身をひきしめられた。
「ね、あそこをご覧なさい」
青年の指差したのは、真向いの堤に恰《あたか》も黄金の滝のように咲き枝垂《しだ》れている八重山吹の花むらであった。陽は午後の円熟した光を一雫のおしみもなく、その旺溢した黄金色の全幅にそそぎかけている。青年は画家が真に色彩を眺め取る時に必ず細める眼つきを、そちらへ向けながら沁々《しみじみ》云った。
「あの山吹の色が、ほんとうに正直に黄いろの花に今の僕の心象には映るのです。僕の心が真に対象を素直にうけ入れられるようになったのですね。以前僕の描いた山吹の色は錆色でした。それが渋いとか何とかいいかげんなニヒルの仲間達に煽《おだ》てられたもんですが、詰らないことです。僕の盛り上って来た精神力でほんとうに人生を勇敢にこれからは掴《つか》み取れそうです」
翌日の夜も翌々日の夜も青年は来なかった。そして手紙が来た。
「僕はいっしんにあの山吹の花の写生に取りかかりました。まだ朝寝の癖が全然とれないので昼頃迄は寝ていて、午後一ぱい殆ど日没近くまであの堤の下の水際に三脚を立てて汗みどろに写生です。夜は疲れてくたくたになります。家へ帰って画の道具を置くと手も足も抛《ほう》り出したなりになっちまうのです。伺い度いけれど、あなたの前で行儀悪く寝そべったりしては悪いと思って――それに、お許し下さい、僕は僕の昨今の自分の余念のなさの裡に閉じ籠っていたいのです。当分友達にも遇わず、学校にも行きませんでしょう。お眼の御恢復をひたすら祈ります。ばあやさんに宜しく」
青年の卒業制作は画面に山吹の花のいのちが美事にかがやき溢れた逸品であった。その優秀への讃辞は校内から広く一般画壇にまで拡がった。青年は眼も全快して父母の家に帰っているかの女にその絵を携えて見せに一度来たきり絶えてかの女の許《もと》へ来なかった。青年は東京から遠い或る高原地方に立て籠って、秋の展覧会の制作に取りかかっているのだそうである。
かの女は其処で制作しつつある青年の絵が必ず立派な力の籠った作品であろうことを予期すればする程、何か、自分のなかから摂取して行った人のエゴイズムを憎むような憎みさえ感じるのであった。けれど……しかし、憎みとばかりは云い切れない心内の自覚をかの女自身にも追々感ぜられるのであった。かの女の病的な内気さも追々溶け何か生命の緒を優しく引きほぐされて行くようなあてもない明るさが、かの女の生活にいつか射し添っているのであった。
秋になった或日フランスの兄からかの女に手紙が来た。
「重光君から度々《たびたび》君のことを書いた手紙が来る――君は重光君と結婚したまえ」
簡単ながら決定的な文意であった。
かの女は今更別だんの衝動も心にうけなかった。――まあ、私に云わないで兄さんに云った――かの女はごくあたりまえにこう内心で独り言を云っただけだった――そして普通の友人の絵でも見に行くように重光青年から招待されて、上野の展覧会場へその秋の傑作の一つと評判の高い「高原の太陽」と題する青年の出品画を観に行った。
底本:「岡本かの子全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「老妓抄」中央公論社
1939(昭和14)年3月18日発行
初出:「むらさき」
1937(昭和12)年6月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年1月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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