な桜色の顔の色をかの女は羨んだ。かの女は鬱気の性質から、顔の色はやや蒼白かった。しかし、肉附きも骨格も好くて、内部に力が籠っている未完成らしい娘だった。
「年頃のお嬢様のような『気《け》』もなくって……」と老婢は時々意味|有気《ありげ》に云った。
同じく都会に育って、灰汁《あく》抜けし過ぎた性質から、夫からも家からもあっさり振り捨てられて、他人の家で令嬢附の侍女を勤めて、平気な顔をしている老女中は、青年と上べの調子はよく合った。少くとも自分からは、ばあやは青年と気が合っていると思い込んでいた。
「お嬢さま、この牡蠣《かき》のフライと山葵《わさび》漬はおあがりになりませんね。では、これを重光《しげみつ》さんのお肴《さかな》にとっといて、またビールでも差上げましょう。なにそう云ったって構《かま》やしません。あの方はさくくていらっしゃるから」
ばあやは青年の気さくなところばかりを見ていた。
かの女が喰べて仕舞った夕飯の膳をひいて行くときに、ばあやはこう云って、かの女の箸をつけない皿を一つか二つ残して置くのであった。そして母屋《おもや》の邸の台所からビールを貰って来て、青年を待った。青年は笑を含みながら大部分の時間をばあやに素直に饗応《もてな》された。酒は強いらしくいくら飲んでも大して変らなかった。ただ老女中に対しては、いかにもこういう種類の女中を扱いつけているらしい態度で冗談にして愛想を云った。
「ばあやさんお酌の仕方がうまいなあ」
「むかし酒飲みの主人を持っておりましたからね」
淡々として人生をも生活をも戯画化して行く。これを江戸趣味とでもいうのであろうか。青年と老女中は、追羽子の羽根のように会話を弄んで行くが、かの女は他愛ないもののように取れて、そっと傍見をして欠伸《あくび》をしてしまった。だが欠伸の後の生理的弛緩に伴う心の寂寞をかの女は自分にあやしんで見た。この青年の傍にいることは何という淋しさだろう。大都会の下町――そこにはあらゆる文化と廃頽の魔性の精がいて、この俊敏な青年の生命をいつかむしばみ白々しい虚無的な余白ばかりを残して仕舞った。恰《あたか》も自家中毒の患者を見るような憐みさえ、かの女の心に湧いて来るのだった。そしてかの女はその心をどう表現して好いかわからない。やはり表面には退屈な表情より現われて来ない。すると、ばあやはさすがに目敏く見て取り
「お嬢さまご退屈ですか、おやおや。じゃ一つ重光さんに唄でもうたって聴かして頂きましょう」
「いやな婆や」
かの女は口でこう云って制したけれども、こういう青年がどんな唄をうたうかそれも聴いて見たかった。
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青年の唄っている唄は花柳界の唄にしても、唄っている心緒は真面目な嘆きである。声もよくなく、その上節廻しに音痴のところがある。それを自分で充分承知していながら、自分に対する一種の嘲笑いを示すかのような押した調子の底に、医《い》やすべからざる深い寂寞が潜むではないか。かの女の一般の若い生命を愛しむ母性が、この青年に向ってむくむくと頭を擡《もた》げる、この青年はどうかしてやらなければいけない。だがそう思う途端に、忽《たちま》ちかの女は自分を顧みる。危い性分である。人一倍情熱を籠めて生れさせられた癖に、家柄の躾《しつ》けや病身のために圧搾に圧搾を加えられている。それが自分の内気というものなのだ。もし、義侠のつもりで働きかけるにも、恋とか愛とかに陥《おちい》ってしまわぬだろうか。もしそういう道を踏めば、内気なだけに一途な性分でどこまで行くか知れない自分ではないか。日頃同じ性質の兄と共に警《いまし》め合っているのはこれではないか。これはまるで薪《たきぎ》を抱く人間が火事を救いに行くようなものであると、かの女は思った。兄は何故に自分にこんな青年を紹介したのか。自分は兄か何者かに試されているのではなかろうか。
「ばあや、もう眼の罨法《あんぽう》をする時間じゃなくって」
「そうでございましたね。じゃ重光さん今晩はもう失礼ですが」
青年はたいがい夜になってかの女を訪れて来た。
ばあやは
「重光さん、昼間はご勉強ですか」と訊いた。
すると青年は、ばあやより寧《むし》ろかの女に向うようにいった。
「昼間は何の感興もなく寝ていますよ。まあ死んでるようですね」
かの女は陽のある昼は全くの無に帰し、夕方より蘇る青年を、物語の中の不思議な魂魄のように想われ、美しくあやしく眺めた。
かの女の眼病は遅々として癒えながら、桜が咲いて散って行っても、まだ癒えなかった。青年は殆ど連夜かの女を訪れた。かの女の残り物で酒を
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