った。陽は午後の円熟した光を一雫のおしみもなく、その旺溢した黄金色の全幅にそそぎかけている。青年は画家が真に色彩を眺め取る時に必ず細める眼つきを、そちらへ向けながら沁々《しみじみ》云った。
「あの山吹の色が、ほんとうに正直に黄いろの花に今の僕の心象には映るのです。僕の心が真に対象を素直にうけ入れられるようになったのですね。以前僕の描いた山吹の色は錆色でした。それが渋いとか何とかいいかげんなニヒルの仲間達に煽《おだ》てられたもんですが、詰らないことです。僕の盛り上って来た精神力でほんとうに人生を勇敢にこれからは掴《つか》み取れそうです」
翌日の夜も翌々日の夜も青年は来なかった。そして手紙が来た。
「僕はいっしんにあの山吹の花の写生に取りかかりました。まだ朝寝の癖が全然とれないので昼頃迄は寝ていて、午後一ぱい殆ど日没近くまであの堤の下の水際に三脚を立てて汗みどろに写生です。夜は疲れてくたくたになります。家へ帰って画の道具を置くと手も足も抛《ほう》り出したなりになっちまうのです。伺い度いけれど、あなたの前で行儀悪く寝そべったりしては悪いと思って――それに、お許し下さい、僕は僕の昨今の自分の余念のなさの裡に閉じ籠っていたいのです。当分友達にも遇わず、学校にも行きませんでしょう。お眼の御恢復をひたすら祈ります。ばあやさんに宜しく」
青年の卒業制作は画面に山吹の花のいのちが美事にかがやき溢れた逸品であった。その優秀への讃辞は校内から広く一般画壇にまで拡がった。青年は眼も全快して父母の家に帰っているかの女にその絵を携えて見せに一度来たきり絶えてかの女の許《もと》へ来なかった。青年は東京から遠い或る高原地方に立て籠って、秋の展覧会の制作に取りかかっているのだそうである。
かの女は其処で制作しつつある青年の絵が必ず立派な力の籠った作品であろうことを予期すればする程、何か、自分のなかから摂取して行った人のエゴイズムを憎むような憎みさえ感じるのであった。けれど……しかし、憎みとばかりは云い切れない心内の自覚をかの女自身にも追々感ぜられるのであった。かの女の病的な内気さも追々溶け何か生命の緒を優しく引きほぐされて行くようなあてもない明るさが、かの女の生活にいつか射し添っているのであった。
秋になった或日フランスの兄からかの女に手紙が来た。
「重光君から度々《たびたび》君のことを書いた手紙が来る――君は重光君と結婚したまえ」
簡単ながら決定的な文意であった。
かの女は今更別だんの衝動も心にうけなかった。――まあ、私に云わないで兄さんに云った――かの女はごくあたりまえにこう内心で独り言を云っただけだった――そして普通の友人の絵でも見に行くように重光青年から招待されて、上野の展覧会場へその秋の傑作の一つと評判の高い「高原の太陽」と題する青年の出品画を観に行った。
底本:「岡本かの子全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「老妓抄」中央公論社
1939(昭和14)年3月18日発行
初出:「むらさき」
1937(昭和12)年6月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年1月25日作成
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