だな。
――何の用ですか。

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女あたりを見廻して
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――誰も聞いてるものは居ないでしょうか。少し内密|咄《ばな》しなのですが。
――見らるる通り、あたりに人影とてはない。在るものは欅並木に、冬の月、仕舞って帰った茶屋の婆が、仕舞い忘れた土産の木菟《みみずく》。形は生ものでも実は束ねた苅萱《かるかや》。これなら耳があったとて大事なかろう。
――では申し上げます。わたしは人間ではございません。狐でございます。
――さては評判のこの界隈《かいわい》の狐だな。
――狐、結構、だがめったに正体を現わすな。いつまでもその美女のままでいて呉れ。
――お恥かしうございます。
――はにかむところは一入《ひとしお》艶だ。
――おれは、君ほど観照してる余裕はない。女狐さん用ならさっさと話して呉れ。
――では申し上げます。お頼みがあるのでございますが……。
――ちょっと待った。あらかじめ聞いて置くのだが、その頼みの筋というのは色っぽいことか、それとも野暮なことか。
――野暮なことでございます。
――そうか。そいつはどうも、気がないな。
――いえ、場合によっては、色っぽくならないものでもございません。
――なるべく、その方に頼むよ。
――何を呑気《のんき》なことを云ってるのだ。さあ早く話を聞こう。(と二見)
――わたくしに夫がございます。狐の夫でございますから、男狐なのでございます。
――ふむ、君の連れ合いのことだから、狐にしてもさぞ美しい若狐だろう。
――わたくしの口から申すも憚《はばか》られますが、鼻筋|凜々《りり》しく通り、眼は青みがかった黒い瞳で、口元の締り方に得も云われぬ愛嬌がございます。(女、鈴懸を指し)とんとこちらを狐にしたような男振り。
――二見氏、おれは狐にしたらよい男振りだそうだ。
――気持ちの悪いことをいう。君までが狐が化けてるように見えて来たぞ。早く話を進行さして呉れ。
――それから、女狐さん、どうした。
――三日前の夜の明けないうちでございます。夫はいつも通りわたくしに寝鳥の肌ぬくい締め立てでも銜《くわ》えて来て、私の朝飯に食べさそうと、目白あたりまであさり廻るうち、鈍《おぞ》くも狐師の七蔵に生捕りにされたのでございます。
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聞けば注文するものもあって、夫狐は売り渡されたが最後、生肝《いきぎも》をとらるる由《よし》なそうにございます。
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――それは、さぞ、心痛なことであろう。だがここが肝腎なところだ。一体狐にもそういう場合に、人間と同じように愁嘆があるものか知らん。
――ご冗談|仰言《おっしゃ》っては困ります。生きとし生けるものの嘆きに人《ひと》、けだものの変りがございましょうか。
――だったら、一つ試しに詳しく聞かして呉れ給え、参考になる。そうなあ、狐には通力というものがあるそうだから、一つその嘆きを形の振りごとにして示して貰い度い。すりゃわたしたちに取っても稀代《きたい》の見聞さ。
――拙《つたな》い手振り、恥しながら、夫の身のため……。
――二見氏、その酒筒を出せ、この床几《しょうぎ》に腰かけて一ぱいやりながら、見物しよう。
――ばかばかしい。それこそわざと狐に化かされることの深味へ嵌《は》めて呉れと注文するようなものだ。気がついて見れば、あしたの朝は小川の行水にでもつかっているぞ。
――まあ任して置け、こっちへ来い。
――では……。

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女、唄い乍《なが》ら舞う

唄※[#歌記号、1−3−28]
元《もと》よりこの身は畜生の。人にはあらぬ悲しさの。添うに添われぬ夫婦の道よ。迷ぞ深き身の上の。思いの種とやなりやせん。いとど心はうば玉の夜の寝伏《ねぶ》しの手枕や手枕や
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――やんややんや、この頃市村座でやっている「振袖|信田《しのだ》妻」二番目の所作唄だな。
――いくら化されぬよう要心していても、只今の踊りにはついうっとり見惚《みと》れてしまった。
――女狐さん、まあ、こっちへ来て一ぱいやらぬか。
――有難うございますが、夫の身の上案じられて、ささ[#「ささ」に傍点]も喉《のど》へは通り兼ねます。
――そりゃそうなくてはならぬ筈じゃ、気の毒なことじゃ、身共たちに頼みとは、その男狐を助ける助太刀でもしろと望まるるか。
――義侠のお侍さまと見込んで、お情に縋《すが》ります。どうか、その男狐を七蔵がところへ行き、十両の身代金をお払い下さいまして、籠《かご》からお放ち下さいませ。
――十金か、こりゃ大金だ。なあ、鈴懸氏。
――浪人の身の上では、そうとう荷
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