《あと》のような四つの小さい窪みのできる乙女の手は、いま水晶を溶したような水の流れを遮《さえぎ》る――水は潺湲《せんかん》の音を立て、流勢が勝って手に逆《さから》うとき水はまた淙々《そうそう》と響く。
「よし」
 暫くして慶四郎が夢から醒めた者のうめき[#「うめき」に傍点]のような声をたてた。
「僕が望んでいた曲の感じを掴えたよ、ありがとう千歳さん」

 二人は夕方、元箱根の物静な旅館に入った。入浴が終ると千歳は縁側に出て空を仰ぎながら言った。
「もう暮れ出したのね。私そろそろ東京へ帰らなければ」
 すると慶四郎はつかつか立って来て千歳の傍へ来た。そして率直に言った。
「東京へ帰らないで、これから僕と一緒に何処《どこ》までも行ってお呉れ、千歳さん」
「まあ、何故」
「僕、今度、またすばらしい夢を思いついたんだよ」
 千歳はとうとうこんな事になったのかと溜息をした。と同時に急に姉の泣き笑いの顔、それによく似た亡き母の面影までも二重になって千歳の眼に泛《うか》んだ。千歳はおろおろ声になって、
「後生《ごしょう》だからそんなこと言わないで、あなたはお父様にお詫びして姉様と一緒になって――」
 千歳が思わず取縋《とりすが》った慶四郎の手から、却《かえ》ってぴりぴりするような厳しい震えを千歳は感じた。
「姉さんは、僕にたった一つの夢しか与えなかった。あなたは僕に取って無限の夢の供給者だ」
「でも……」
「姉さんには気の毒だ。でも、芸の道は心弱くては行かれない道だ……それに千歳さんだって僕を嫌いではない筈だ」
 千歳は始めて剛腹な慶四郎が、涙を零《こぼ》すのを見た。
 千歳は頭を垂れたまま其処に立ちつくしている――それは肯定の姿とも暗黙の姿ともうけとれる――
 湖は暮れて来た。湖面の夕紫は、堂ヶ島を根元から染めあげ、真向いの箒ヶ崎は洞のように黝《くろず》んだ。大きな女中と、小さい女中が、
「暫らく停電いたすそうですから……」
 といいながら、大|蝋燭《ろうそく》の燭台と、ゆうげの膳を運んで来た。



底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「丸の内草話」青年書房
   1939(昭和14)年5月20日発行
初出:「令女界」
   1938(昭和13)年8月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年2月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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