き合ってみると亡き母に生うつしの姉だった。千歳は、そこにこの姉への懐しみといとしさを感じた。
千歳は、くるりと姉の方へ向直った。そして、姉の左の手へ自分の右の手の指を合せながら、
「じゃ、まあ、行ってみるわ」
「そうなさい、そうしてよ」
千歳は、この姉が、自分に出来ないことはいつも妹にして貰《もら》い、それによって様子の脈をひく性分であることも充分承知していた。
千歳が、明日の朝の箱根行きの仕度《したく》をしに部屋へ引取ろうとすると、仲子は鼻声で言った。
「ちょっと、あたしに、その電報|頂戴《ちょうだい》よ」
五月の薄曇りの午前に、千歳は箱根湯本の玉屋の入口の暖簾《のれん》を潜った。入れ違いに燕《つばめ》が白い腹を閃かして出た。
「やあ、来ましたね。よく来ましたね」
明るい外から入って来たので、千歳の眩《くら》んだ眼にはよく判からなかったが、慶四郎は支度して玄関へ出て待っていたらしい。
「あら、病気だなんて……電報うったくせに」
「嘘じゃなかったけど、もう直った」
「まあ……」
千歳が呆れるのも構わずに、慶四郎は無造作に千歳の肩を掴《つかま》えて向を変えさせ、腕を抱えてぐんぐん外へ連れ出した。家にいるときも慶四郎は悪気もなくよく突飛なことをする男だった。千歳は、今度も何か慶四郎の独り合点でこういう挙動をするのだろうと曳かれるままに連れられて表へ出たが、
「さようなら、お気をつけ遊ばして」
と言って見送る女中達に千歳は慶四郎の露骨な振舞いが少しきまり悪かった。
薄霧の曇りは、たちまち剥げかかって来た。競《せ》り上るように鮮かさを見せる満山の新緑。袷《あわせ》の紺飛白《こんがすり》に一本|独鈷《どっこ》の博多の角帯を締め、羽織の紐代りに紙繕《こより》を結んでいる青年音楽家は、袖をつめた洋装を着た師の妹娘を後に従えて、箱根旧街道へと足を向けた。右手の若葉の谷の底に須雲川の流水の音がさらさらと聞えた。
「先生は」
「丈夫よ」
「お姉さまは」
「丈夫よ」
「塾の凡庸な音楽家の卵たちは」
「相変らず口が悪いのね、みんな丈夫」
それより千歳は、病気といって自分を呼び寄せた慶四郎の事情をも一度訊く気になった。
「ねえ、どうして、あんた病気だなんて私を呼んだ」
「そのことはもう言いっこなし」
「だって……変だわね、私、お金少し持って来たのに」
「そんな話、もうやめ
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