で用を足せるやうにと浦子に日常のやさしい生活事務をポツ/\教へ込むことに努力を向けかへてゐた。
 松崎の来るすこし前ごろから浦子は毎日母親から金を渡されて一人で町へ買物に行く稽古《けいこ》をさせられてゐた。
 庭には藤《ふじ》が咲き重つてゐた。築山《つきやま》を繞《めぐ》つて覗《のぞ》かれる花畑にはヂキタリスの細い頸《くび》の花が夢の焔《ほのお》のやうに冷たくいく筋もゆらめいてゐた。早出の蚊《か》を食はうとぬるい水にもんどり打つ池の真鯉《まごい》――なやましく※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ろう》たけき六月の夕だ。
 松崎は小早く川から上つて縁側で道具の仕末をしてゐた。釣つて来た若鮎の噎《むせ》るやうな匂ひが夕闇に沁《し》みてゐた。そこへ浦子が
 ――お金が汗をかいたわ。」
 といつて帰つて来た。
 ――松崎さん。こんなお金でおしほせん[#「おしほせん」に傍点]買へて?」
 この疑ひのために浦子はそのまま塩煎餅《しおせんべい》屋の前から引返して来たのだ。
 松崎は眼を丸くして浦子の顔を見た。むつくり高い鼻。はかつたやうにゑくぼ[#「ゑくぼ」に傍点]を左右へ彫り込んだ下膨《しもぶく》れの頬《ほお》。豊かに括《くく》つた朱の唇。そして蛾眉《がび》の下に黒い瞳がどこを見るともなく煙つてゐる。矢がすりの銘仙に文金《ぶんきん》の高島田。そこに一点の羞恥《しゅうち》の影も無い。松崎は眼を落して娘の掌《てのひら》を見た。古典的で若々しいローマの丘のやうに盛上つた浦子の掌の肉の中に丸い銀貨の面はなかば曇りを吹き消しつゝある。
 松崎は思はず娘の手首を握つた。そして娘の顔をまた見上げた。そのとき松崎の顔にはあきらかに一つの感動の色が内から皮膚をかきむしつてゐた。
 ――こんなお金でおしほせん[#「おしほせん」に傍点]買へて?」
 松崎の顔は決心した。そしてほつと溜息《ためいき》をついて可愛らしい浦子の掌へキスを与へた。そしていつた。
 ――買へますよ。買へますとも。どりや、そいぢや僕も一しよに行つてあげませう。そしてこれからはあなたの買物に行くときにはいつでも一しよに行つてあげますよ。」
 その秋に松崎は浦子を妻に貰《もら》つて東北の任地へ立つて行つた。
        ×        ×
 これはあの大柄で人の好ささうな貨幣一円銀貨が日本にあつた時分
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング