、必死に手に力をこめるほど往時《むかし》の恨みが衝《つ》き上げて来て、今はすさまじい[#「すさまじい」に傍点]気持ちになっていた。
「なぜ、私を撲《なぐ》ったんですか。一寸口を利かなかったぐらいで撲る法がありますか。それも社を辞める時をよって撲るなんて卑怯《ひきょう》じゃありませんか」
 加奈江は涙が流れて堂島の顔も見えないほどだった。張りつめていた復讐心が既に融け始めて、あれ以来の自分の惨めな毎日が涙の中に浮び上った。
「本当よ、私たちそんな無法な目にあって、そのまま泣き寝入りなんか出来ないわ。課長も訴えてやれって言ってた。山岸さんなんかも許さないって言ってた。さあ、どうするんです」
 堂島は不思議と神妙に立っているきりだった。明子は加奈江の肩を頻《しき》りに押して、叩き返せと急きたてた。しかし女学校在学中でも友達と口争いはしたけれども、手を出すようなことの一度だってなかった加奈江には、いよいよとなって勢いよく手を上げて男の顔を撲るなぞということはなかなか出来ない仕業《しわざ》だった。
「あんまりじゃありませんか、あんまりじゃありませんか」
 そういう鬱憤の言葉を繰返し繰返し言い募《つの》ることによって、加奈江は激情を弾ませて行って
「あなたが撲ったから、私も撲り返してあげる。そうしなければ私、気が済まないのよ」
 加奈江は、やっと男の頬を叩いた。その叩いたことで男の顔がどんなにゆがんだか鼻血が出はしなかったかと早や心配になり出す彼女だった。叩いた自分の掌に男の脂汗が淡くくっついたのを敏感に感じながら、加奈江は一歩|後退《しさ》った。
「もっと、うんと撲りなさいよ。利息ってものがあるわけよ」
 明子が傍から加奈江をけしかけたけれど、加奈江は二度と叩く勇気がなかった。
「おいおい、こんな隅っこへ連れ込んでるのか」
 さっきの四人連れが後から様子を覗きにやって来た。加奈江は独りでさっさと数寄屋橋の方へ駆けるように離れて行った。明子が後から追いついて
「もっとやっつけてやればよかったのに」
 と、自分の毎日共に苦労した分までも撲って貰いたかった不満を交ぜて残念がった。
「でも、私、お釣銭は取らないつもりよ。後くされが残るといけないから。あれで私気が晴々した。今こそあなたの協力に本当に感謝しますわ」
 改まった口調で加奈江が頭を下げてみせたので明子も段々気がほぐれて行って「お目出とう」と言った。その言葉で加奈江は
「そうだった、ビフテキを食べるんだったっけね。祝盃を挙げましょうよ。今日は私のおごり[#「おごり」に傍点]よ」
 二人はスエヒロに向った。

 六日から社が始まった。明子から磯子へ、磯子から男の社員達に、加奈江の復讐成就が言い伝えられると、社員たちはまだ正月の興奮の残りを沸き立たして、痛快々々と叫びながら整理室の方へ押し寄せて来た。
「おいおい、みんなどうしたんだい」
 一足|後《おく》れて出勤した課長は、この光景に不機嫌な顔をして叱ったが、内情を聞くに及んで愉快そうに笑いながら、社員を押し分けて自分が加奈江の卓に近寄り「よく貫徹したね、仇討本懐《あだうちほんかい》じゃ」と祝った。
 加奈江は一同に盛んに賞讃されたけれど、堂島を叩き返したあの瞬間だけの強《し》いて自分を弾ませたときの晴々した気分はもうとっくに消え失せてしまって、今では却ってみんなからやいやい言われるのがかえって自分が女らしくない奴と罵《ののし》られるように嫌だった。
 社が退《ひ》けて家に帰ると、ぼんやりして夜を過ごした。銀座へ出かける目標《めあて》も気乗りもなかった。勿論《もちろん》、明子はもう誘いに来なかった。戸外は相変らず不思議に暖かくて雪の代りに雨がしょぼしょぼと降り続いた。加奈江は茶の間の隅に坐って前の坪庭の山茶花《さざんか》の樹に雨が降りそそぐのをすかし見ながら、むかしの仇討ちをした人々の後半生というものはどんなものだろうなぞと考えたりした。そして自分の詰らぬ仕返しなんかと較べたりする自分を莫迦《ばか》になったのじゃないかとさえ思うこともあった。

 一月十日、加奈江宛の手紙が社へ来ていた。加奈江が出勤すると給仕が持って来た。手紙の表には「ある男より」と書いてあるだけで加奈江が不審に思って開いてみると意外にも堂島からであった。
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この手紙は今までの事柄の返事のつもりで書きます。僕は自分で言うのもおかしいけれど、はっきりしていると思う。現在、あの拓殖会社が煮え切らぬ存在で、今度の社が軍需に専念である点が僕の去就を決した。しかし私に割り切れないものがあの社を去るに当って一つあった。それは貴女に対する私の気持でした。社を辞めるとなれば殆《ほとん》ど貴女には逢えなくなる。その前に僕の気持を打ち明けて、どうか同情して貰いたいとあせっ
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