、必死に手に力をこめるほど往時《むかし》の恨みが衝《つ》き上げて来て、今はすさまじい[#「すさまじい」に傍点]気持ちになっていた。
「なぜ、私を撲《なぐ》ったんですか。一寸口を利かなかったぐらいで撲る法がありますか。それも社を辞める時をよって撲るなんて卑怯《ひきょう》じゃありませんか」
加奈江は涙が流れて堂島の顔も見えないほどだった。張りつめていた復讐心が既に融け始めて、あれ以来の自分の惨めな毎日が涙の中に浮び上った。
「本当よ、私たちそんな無法な目にあって、そのまま泣き寝入りなんか出来ないわ。課長も訴えてやれって言ってた。山岸さんなんかも許さないって言ってた。さあ、どうするんです」
堂島は不思議と神妙に立っているきりだった。明子は加奈江の肩を頻《しき》りに押して、叩き返せと急きたてた。しかし女学校在学中でも友達と口争いはしたけれども、手を出すようなことの一度だってなかった加奈江には、いよいよとなって勢いよく手を上げて男の顔を撲るなぞということはなかなか出来ない仕業《しわざ》だった。
「あんまりじゃありませんか、あんまりじゃありませんか」
そういう鬱憤の言葉を繰返し繰返し言い募《つの》ることによって、加奈江は激情を弾ませて行って
「あなたが撲ったから、私も撲り返してあげる。そうしなければ私、気が済まないのよ」
加奈江は、やっと男の頬を叩いた。その叩いたことで男の顔がどんなにゆがんだか鼻血が出はしなかったかと早や心配になり出す彼女だった。叩いた自分の掌に男の脂汗が淡くくっついたのを敏感に感じながら、加奈江は一歩|後退《しさ》った。
「もっと、うんと撲りなさいよ。利息ってものがあるわけよ」
明子が傍から加奈江をけしかけたけれど、加奈江は二度と叩く勇気がなかった。
「おいおい、こんな隅っこへ連れ込んでるのか」
さっきの四人連れが後から様子を覗きにやって来た。加奈江は独りでさっさと数寄屋橋の方へ駆けるように離れて行った。明子が後から追いついて
「もっとやっつけてやればよかったのに」
と、自分の毎日共に苦労した分までも撲って貰いたかった不満を交ぜて残念がった。
「でも、私、お釣銭は取らないつもりよ。後くされが残るといけないから。あれで私気が晴々した。今こそあなたの協力に本当に感謝しますわ」
改まった口調で加奈江が頭を下げてみせたので明子も段々気がほぐれて行って
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