く》な好みを持つてゐるんです」
「弟さんは」
「あれは父と同じに女嫌ひらしいです」
 さうかと思ふとまたの日は急に朗らかで、いそ/\して来て、どこから探し出して来たか、古風な猥《みだ》らな絵巻物をかの女にそつと拡げかけるやうなこともあつた。かの女は極力平静を装つて、彼の顔を正視した。
「それどこが面白いのでございます」
 すると、彼は照れて、
「僕にはものを考へないといふモツトー以外には生きる方法はないんです。単に刹那《せつな》々々の刺戟《しげき》のほかには……」
と負け惜しみのやうなことを云ひながら、手持ち不沙汰《ぶさた》にそれを巻き納めて部屋を出て行くのだつた。


 父のYは旧幕の権臣の家の後嗣《こうし》者であつた。旧藩閥の明治の功傑たちは、新政府に従順だつた幕府方の旧権臣の家門を犒《ねぎら》ふ意味から、その後嗣者を官吏として取り立てた。Yは相当なところまで出世した。しかし、Yの持つて生れた度外れの気位と我執《がしゅう》の性質から、たうとう長上《ちょうじょう》と衝突して途中で辞めて仕舞《しま》つた。遺産のあるまゝに生来の蒐集癖《しゅうしゅうへき》に耽《ふけ》つて、まだ壮年をちよつと過ぎたくらゐの年頃を我儘三昧《わがままざんまい》に暮さうと決めてしまつた。恐るべきエゴイストの墓標のやうな人間であつた。
 Yの権高《けんだか》な気風と、徹底した利己主義に、雪子はやゝ超人的な崇高な感じは受けたが、下町娘の持つ仁侠《にんきょう》的な志気はYにひどい反抗と憎みを持つた。あはよくば、Yが寵愛《ちょうあい》してゐる弟息子を奪つて、父の傲慢《ごうまん》の鼻を明かしてやらうとさへヒステリカルに感じた。
 兄の息子は、膨れ目蓋《まぶた》のしじゆう涙ぐんでゐるやうに見える、皮膚の水つぽい青年だつた。女のことで一度|落度《おちど》があつたといふ噂《うわさ》だが、しかしそのことが原因ばかりでもない蔭の人の性分を十分持つてゐて、父や弟から、身内と召使ひとの中間の人間に扱はれ、雇人《やといにん》に混つて、自然にこの別寮の家扶《かふ》のやうな役廻りになつてゐた。しかし、見かけほど悲劇的な性格もなく、どこかのん気で愚《おろか》なところがあつて、情操的にものを突き詰めては考へられなく、萍《うきくさ》の浮いたところがあつた。


 母のゐないこの別寮で、兄の鞆之助は主婦のやうな役目にもなつた。雪子が来て二月ほどしたある日、弟の梅麿はかの女の部屋に来てゐた兄のところへ珍しく入つて来て、
「兄さん、僕に出して呉《く》れた着物、綻《ほころ》びが切れてるぢやないか」
と袂《たもと》をあげて脇を見せた。
 すると兄ははら/\しながら、美しく重圧して来る弟の黒い瞳に堪へないやうに眼を伏せて目蓋《まぶた》をぴり/\させ、
「だつて、いま、婆《ばあ》やも女中も使ひに出しちやつてゐないんだから仕方がないよ」
 すると梅麿は苦いものに内部から体を縒《よ》ぢ廻されるやうに憂鬱《ゆううつ》な苦悩を表情に見せて、
「もう浴衣《ゆかた》でなきや暑くて、お父さんにいひつかつた庭の盆栽へ水をやりに行けないぢやないか――兄さん自分で縫つてお呉《く》れよ」
 兄の不甲斐《ふがい》ない性質に対する日頃の不満と、この弟を凝《こご》つた瑩玉《えいぎょく》のやうに美しくしてゐる生れ付き表現の途《みち》を知らない情熱と、生命力の弱いものに対しては肉親でも奴隷《どれい》のやうに虐《しいた》げて使つてしまふ親譲りのエゴイズムとが、異様で横暴な形を採つて兄に迫つた。
 兄は困つたやうな情けないやうな表情をして、突き付けられた浴衣《ゆかた》に近寄つて行つた。
 しかし、傍に雪子のゐるのを見ると、薄い乾いた下唇をちよつと舌の先で湿らしてから、兄はにやりと笑つた。
「無理をいふなよ――だめだよ。男になんか、縫へなんて……」
 そして腕組みをして昂然《こうぜん》とした態度を作つた。それには不自然なところがあつた。兄はありたけの勇を揮《ふる》つて弟の瞳に睨《にら》み合つた。
 雪子の立場が切ないものになつて来た。雪子は彼女の箪笥《たんす》の観音開きから急いで針道具を取出して来て、弟の持つてゐる浴衣に手をかけた。
「何でもありませんわ。あたし縫つてあげますわ」
 すると、梅麿は浴衣を雪子の手からすつと外《は》づして、なほ兄に向つていつた。
「兄さん縫つてお呉れよ。いつもうまく縫ふぢやないか」
 兄は赤くなつた。弟は兄になほも迫つた。場合によつては平気で、兄が雪子に聞かれて、もつと顔を赤くしさうな暴露の意地悪さを用意して、ぜひ兄に縫はせないでは置かない気配を示した。そこにはまた、雪子といふ第三者が入り込むのを潔癖《けっぺき》に嫌ふいこぢさ[#「いこぢさ」に傍点]もあつた。
 雪子は弟が肉親の兄に対する執拗《しつよう》な残忍な仕打ちと、また女の身の雪子が折角《せっかく》の申出《もうしで》を態《てい》よく拒否された恥とで、心中怒りが盛り上つて来た。何として仕返しをしてやらう――雪子は針道具をそこへ置いたまゝ、青葉の映る椽側《えんがわ》へ離れて行つて、そこの柱へ凭《もた》れてまじ/\と弟を見詰めてゐてやつた。
 兄は雪子の気配を察するだけに、いよ/\その場の処置が困難になつて、ただ生《なま》返事をして萎縮《いしゅく》してゐた。
 雪子はふと、母もなく我執の父の下に育つて、情のしこつた弟息子の親への甘えごころが、兄へかうも変つた形を採つて現はれるのではないかと気がついた。そして、生命力の薄い、物に浮《うか》れ易《やす》い兄は、到底弟のこの本能の一徹な慾求を理解もし負担もしてやる力はないのだと思つた。兄は彼の紛らし易《やす》い性分から、彼の愛の慾求を何かに振り撒《ま》き、繋《つな》ぐことによつて、彼自身だけの始末をつけてゐた。彼はこの頃いよ/\雪子に向けて心を寄せる傾向が見えてゐた。
 兄は雪子の眼の前で針仕事をする姿を、何としても見せたくないらしく、いかに弟に迫られても薄笑ひしてゐて、応じなかつた。そして顔色を蒼《あお》ざめさしたり、急に赤めたり、しかもわきへ避けて行かないで、だん/\眼と口とが茫漠《ぼうばく》となるところを見ると、一種の被虐性の恍惚《こうこつ》に入つてゐるものゝやうに見えた。
 弟はこれに対してます/\執拗《しつよう》になり、果ては凡《あら》ゆる侮誣《ぶふ》の言葉を突きつけて兄に向つた。
 雪子は見てはゐられない気がした。こんなに執拗に取組まなければ愛情の吐け口を得られない兄弟の運命や性格の原因をどこへ持つて行つたらいゝか、その詮索《せんさく》をするのさへいま/\しいほど、心を不快に底から攪《か》き廻された。いまから考へると多分の嫉妬《しっと》もあつたやうに思ふ。さういふ険《けわ》しい石火《いしび》を截《き》り合つて、そこの裂目《さけめ》から汲《く》まれる案外甘い情感の滴り――その嗜慾《しよく》に雪子は魅惑を感じた。雪子の細胞には、他人のさういふ仕打ちの底の心理を察して羨《うらや》むだけの旧家《きゅうか》育ちの人間によくある、加虐性も被虐性も織り込まれてゐた。


 弟はたうとう兄の薄皮の手首を、女のやうにじーつと抓《つね》つた。兄は真赤に顔を歪《ゆが》めてそれを堪へてゐた。雪子は激動の極、少し痴呆《ちほう》状態になつて却《かえ》つて逆に刺戟《しげき》を求めるこゝろから、もつと眼の前で惨劇の進むのに息詰まる興味を持つやうになつてゐた。
 それが終ると弟は浴衣《ゆかた》を抛《ほう》り出して、手早く帯を解いて、それから着てゐた袷《あわせ》も脱いだ。
「僕、縫つて呉《く》れないなら、裸で庭へ出て行くから――」
 行きかける風さへみせた。
 兄はあわてゝ弟を捉《とら》へた。
「だめだよ。そんななりで、君、感冒《かぜ》をひくぢやないか」
 兄は弟が小さい時感冒から肋膜《ろくまく》の気になつたのを覚えてゐて、それを気遣《きづか》つたものゝ、もつと大きな原因は、この兄弟は生まれつき肉体の露出については不思議な羞恥《しゅうち》の本能を持つてゐた。他人に見られるやうなところで、どんな必要の場合でも肌を脱いだり、裾《すそ》をからげたりは決してしなかつた。兄弟同志の間では、なほ更それは猥《みだ》らなものを見るやうに嫌つた。
 いま弟がそれを敢《あえ》てするのは、必死の羞恥を突き付けて、兄に必死の決意を促す最後の脅迫手段だつた。
「君、裸を垣根から通る人に見られるぢやないか」
「かまふもんか」
 兄弟は死のやうに蒼《あお》ざめて争つた。
 兄は息が切れるやうに喘《あえ》いだ。眼を伏せて、なるべく見ないやうにして、着物を弟に着せようとした。弟は肩ではねのけた。幾度か少青年の白磁色の身体が紺竪縞《こんたてじま》の大島の着物に覆はれては剥《む》け出た。兄はその所作の間に、しばしば雪子の方を振り向いてかの女の気配を窺《うかが》つた。
 兄の気持を察すると、弟の童貞で魅惑的な肉体を、自分が心を寄せかけてゐる若い娘に見られることは嫉《ねた》ましく厭《いと》はしかつた。だが我意を貫《つらぬ》くことゝ兄を脅《おど》すことの一図に耽《ふけ》る弟は、今は全く雪子の存在などは無視した。弟は一体ふだんから雪子の存在をどう考へてゐるのか、女といふものに対してどういふ感受性を持つてゐるのか、全く不明だつた。それは雪子を寂しく焦立《いらだ》たしいものにしたが、この場合、彼が何人《なんぴと》に対しても嫌ふ裸身を雪子の前ですらりと現はすといふことは、たとへその目的は兄に向つてゞあるとはいへ、副作用として雪子は無視の軽蔑《けいべつ》を斜《はす》に受けないわけにはゆかなかつた。だが、こゝに至つて雪子は怒らうと思つてもなぜか力が脱けた。
 雪子を女として少しも顧慮されない自分を、急に魅力のない卑しいものに感じて、弟に対して感じてゐるふだんの心の底の寂しさを一層深めた。
「仕方がないやつだなあ」
 兄はたうとう負けて、雪子がそこへ置いて来た針道具を、ちよつとかの女に会釈《えしゃく》して、手元へ引き寄せた。針さしから手頃の針を抜き取り、針先を頭の髪の毛へ突き込んで油をにじませた。アイヌの郷土細工の糸巻から、弟の着物と似合ひの色糸を見付けて、針の孔《めど》へ通した。それからいかにも物馴《ものな》れた調子で綻《ほころ》びを繕《つくろ》ひにかゝつた。
 男の針仕事――。いかにぎこちなく、佗《わび》しい形でそれが行はれることだらう。雪子はあらかじめぞりつと寒気を催すと共に、その不快な醜さによつてかの女の神経の肌質《きめ》をさゝくれ立たされることを覚悟してゐたが、兄の手振りを見ておや/\と思つて安心した。より以上に感心した。それは女のする通りの所作に違ひないが、しかしその通りを男の青年がするのに、少しも男の格を崩し、また男の品位を塩垂《しおた》れさすやうな女々《めめ》しい窪《くぼ》みは見出《みいだ》せなかつた。従容《しょうよう》として、たゞ優しい仕事に、男がいたはり携《たずさ》はつてゐる自然の姿に外《ほか》ならなかつた。結局、兄の性格としてそれは身についた仕事であり、弟へしてやつてゐる平常からの馴《な》れであり、実は好みの就業となつてゐるのかも知れない。
「男の針仕事もいゝものだ」
と、雪子は胸の中でさう嘆声を漏《も》らしてゐた。
 だが、雪子は羞明《まばゆ》いのを犯して、兄の縫ふ傍に立つてゐる弟の裸身に眼をやると同時に、全面的に雪子に向つて撞《つ》き入らうとする魅惑を防禦《ぼうぎょ》して、かの女の筋肉の全細胞は一たん必死に収斂《しゅうれん》した。すぐ堪へ切れない内応者があつて、細胞はまた一時に爆発した。そしてすつかり困迷して痴呆《ちほう》状態に陥つた雪子の心身へ、若く甘い魅惑は水の如く浸《ひた》り込んだ。
 雪子はこの若きダビデの姿をいかに語らう――ミケランヂエロの若きダビデの彫像の写真にしても、このときまだ雪子は知らない。後に欧洲《おうしゅう》の彷徨《ほうこう》の旅で知つたのである。それは伊太利《イタリー》フロレンスの美術館の半円周の褐色の嵌《は》め壁を背景にして立つ
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