ら二三年も経《た》つたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附箋《ふせん》で返されて来た。
ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄越《よこ》し、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。
淡い甘さの澱粉《でんぷん》質の匂ひに、松脂《まつやに》と蘭《らん》花を混ぜたやうな熱帯的な芳香《ほうこう》が私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。
「アテチヨコですの?」
「お好き?」
「えゝ。でも、レストラントでなくて素人《しろうと》のおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ」
「素人ぢやございませんわ。店の司厨長《シェッフ》を呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ」
「わざ/\、まあ、恐れ入りました」
「私、最近に下町で瀟洒《しょうしゃ》なレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ」
女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つて呉《く》れ、程よく食塩と辛子《からし》を落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝ剥《は》ぎ、剥げ根にちよつぽり塊《かたま》つてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯で刮《か》き取ることにこどものやうな興味を湧《わか》しながら、
「まあ、あなたがお料理屋を、どうして」
「――何かして紛らしてゐなければ――独身女はしじゆう焦々《いらいら》しますのよ」
さう云つて友はちよつと眉《まゆ》を寄せたが、友の内心には何処《どこ》かさとり[#「さとり」に傍点]めいた寛《くつろ》いだ場所が出来、一脈の涼風が過不及《かふきゅう》なしの往来をしてゐるらしくも感じられる。下手な情感的な態度を見せては案外友を煩《うる》さがらさぬともかぎらない。
「それよりも、私、私が今度買ひ取つて落着くやうになつたこの家に就いて不思議な因縁話があるの、あなたに聴いて頂かうと思つて……さう陽気な話ぢやありませんの。灯《ひ》をつけて話しますわ」
夕顔の花のやうな照り色のシヤンデリヤがぽつとついた。室内の照明に負けて窓外の景色はたちまち幕を閉ぢて、雨の銀糸が黒い幕面にかすれた。一たん眼を冥《つむ》つた友はまたぱつと開いて私の顔を真面《まとも
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング