雪子は怒らうと思つてもなぜか力が脱けた。
 雪子を女として少しも顧慮されない自分を、急に魅力のない卑しいものに感じて、弟に対して感じてゐるふだんの心の底の寂しさを一層深めた。
「仕方がないやつだなあ」
 兄はたうとう負けて、雪子がそこへ置いて来た針道具を、ちよつとかの女に会釈《えしゃく》して、手元へ引き寄せた。針さしから手頃の針を抜き取り、針先を頭の髪の毛へ突き込んで油をにじませた。アイヌの郷土細工の糸巻から、弟の着物と似合ひの色糸を見付けて、針の孔《めど》へ通した。それからいかにも物馴《ものな》れた調子で綻《ほころ》びを繕《つくろ》ひにかゝつた。
 男の針仕事――。いかにぎこちなく、佗《わび》しい形でそれが行はれることだらう。雪子はあらかじめぞりつと寒気を催すと共に、その不快な醜さによつてかの女の神経の肌質《きめ》をさゝくれ立たされることを覚悟してゐたが、兄の手振りを見ておや/\と思つて安心した。より以上に感心した。それは女のする通りの所作に違ひないが、しかしその通りを男の青年がするのに、少しも男の格を崩し、また男の品位を塩垂《しおた》れさすやうな女々《めめ》しい窪《くぼ》みは見出《みいだ》せなかつた。従容《しょうよう》として、たゞ優しい仕事に、男がいたはり携《たずさ》はつてゐる自然の姿に外《ほか》ならなかつた。結局、兄の性格としてそれは身についた仕事であり、弟へしてやつてゐる平常からの馴《な》れであり、実は好みの就業となつてゐるのかも知れない。
「男の針仕事もいゝものだ」
と、雪子は胸の中でさう嘆声を漏《も》らしてゐた。
 だが、雪子は羞明《まばゆ》いのを犯して、兄の縫ふ傍に立つてゐる弟の裸身に眼をやると同時に、全面的に雪子に向つて撞《つ》き入らうとする魅惑を防禦《ぼうぎょ》して、かの女の筋肉の全細胞は一たん必死に収斂《しゅうれん》した。すぐ堪へ切れない内応者があつて、細胞はまた一時に爆発した。そしてすつかり困迷して痴呆《ちほう》状態に陥つた雪子の心身へ、若く甘い魅惑は水の如く浸《ひた》り込んだ。
 雪子はこの若きダビデの姿をいかに語らう――ミケランヂエロの若きダビデの彫像の写真にしても、このときまだ雪子は知らない。後に欧洲《おうしゅう》の彷徨《ほうこう》の旅で知つたのである。それは伊太利《イタリー》フロレンスの美術館の半円周の褐色の嵌《は》め壁を背景にして立つ
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