てゆく坂道を降りて行つた。桜の並木があり、道の縁を取つてゐるまだらな竜の髭に、品格のある庭木が藪からしや烏瓜の蔓に絡まれながら残つてゐる。むかし相当の庭園の入口でゞもあつたものを、庭は住宅に埋められて、道だけ残されたものであらうか。硬い老幹と、精悍な痩せた枝の緊密な組み合せは、鋼鉄と鋳鉄を混ぜ合せて作つた廊門を想はせる。
 桂子はこの鋼鉄の廊門のやうな堅く老い黯《くろ》ずんだ木々の枝に浅黄色の若葉が一面に吹き出てゐる坂道に入るとき、ふとゴルゴンゾラのチーズを想ひ出した。脂肪が腐つてひとりでに出来た割れ目に咲く、あの黴の華の何と若々しく妖艶な緑であらう。世の中には殆ど現実とは見えない何とも片付けられない美しいものがあると桂子は思つた。
 桂子は一人になつて寂しい所を歩いてゐると、チーズのやうな何か強い濃厚《しつこ》いものが欲しくなつた。講習所の先生として、せん子などを相手にお茶請けを麦落雁ぐらゐな枯淡なもので済ます時の自分を別人のやうに思ふ。外国へ行つてから向うの食物に嗜味を執拗にされたためであらうか。
 雨は止んで、日ざしが黄薔薇色の光線を漏斗形に注ぐと、断れ/\に残つてゐる茨垣が、急に膠質の青臭い匂ひを強く立てた。桂子は針の形をしてゐながら、色も姿も赤子のやうに幼い棘の新芽を、生意気にも可愛らしく思つた。
「刺すなら刺してご覧。」
 桂子は、指紋の渦が緻密で完全に巻いてゐる人差指を伸して、棘の尖を押した。
 新芽の棘は軽い抵抗を示しながら、ふによ/\と撓んだ。強く押すと芽の腹の皮の外側は、はち切れさうになり、内側は皺が寄つた。するとその芽が切なく叫んだやうに、赤子の泣き声が桂子の耳の奥に幻聴を起させた。桂子は指を引込めた。
 三十八の女盛りでありながら、子供一人生まなかつたことが、時々自分に責められた。幾人か生んでゐべき筈の無形のこどもの泣声だけが、とき/″\耳についた。今まで数多くうけた処生上の迫害やら脅迫から桂子はいくらか被害妄想にかゝつてゐて、幻想や幻覚はしよつちゆうあつた。桂子は気分を襲つて来た悲惨な蝕斑に少し堪らなくなつて、駆け出して少女のやうに小布施のアトリヱへ転げ込んで、年下の男の友人に何かおいしいものでも喰べさして貰はなければ慰み切れない辛い気持になつた。ごくりと唾を呑むと涙がほろ/\とこぼれた。だが、ふと陽がさしてゐるのに気がついて蛇の目を窄め、無理にぐん/\上りの坂にかゝると、自分の優秀な肉体が、自分の肉体の優秀なのを足駄を踏みかけて行く両股の上に力強く感じた。男と同じほどの背丈があり、それに豊かな白い脂肉が盛りついてゐる自分を崩折れさすわけにはゆかないと、気持が立ち直つて来る。
 坂を上り切つて、晴れかゝる春先の陽の下の町の屋根々々を見返つたときには、桂子の気分の悲惨な蝕斑は薄れて、腹痛の癒りかけたときのやうな感謝すべき、ほつとした気持になつた。笑ひ度いやうな痛痒い鈍痛だけがかすかに残る。するとほの/″\とした野心的《アンビシアス》なものが頭を擡げた。
「苦しい人生をせめて花で慰め度い。私の花を溢らせ度い……。せめてこの都にだけでも一ぱいに……」
 桂子の人生に対する愛撫に似たものが、野心に張り拡げられて、蝋銀色のうすものゝ翼となつて、陽炎の立ちかけてゐる大東京の空を軽く触れ去るやうに感じた。
 桂子は巴里の美術服装家マレイ夫人に招聘されて六年間の仏蘭西滞在中、ロンドン在留同胞有志の懇望で、海一つ越えて一ヶ月程活花を教へに行つた。夜は毎夜露き出しの夜会服の背中を寒がりながら、シーズンの演劇を見て廻つた。一流劇場のクイーン座でバーナード・シヨウの「セント・ヂヨン」を見た。一般の批評では、この著者は仏蘭西の聖少女を痛快に揶揄したやうに取沙汰された。しかし、桂子は聖少女がこの著者の気持よげに薙ぎ廻す皮肉の刃を、身に遣り過して一つも傷をとゞめない不逞の正体を感じ取つた。女には女の観る女の正体がある。他の人意の批判は目の触りにならない。自分でも意識し尽せぬ深い天然の力が、白痴であれ、田舎娘であれ、女に埋蔵されてゐて、強い情熱の鈎にかゝるときに等しくそれが牽き出される。それが場合によつては奇蹟のやうなこともする。または一生埋れ切る場合もある。どつちが女としての幸福か知れないけれど。
 桂子は巴里へ帰つてから、その劇のことをマレイ夫人に話すと、
「しば/\作者の意図以上のものが出てしまふのが天才の芸術だといひますね。シヨウはたぶん天才でせう」
 白けてはゐるが敬虔に媚びた笑を交へた彼女独得の美しい笑ひ方をした。
「丹花《たんくわ》を口に銜みて巷を行けば、畢竟、惧れはあらじ」
 これは女学校友達の女流文学者K――女史が、桂子の講習所を開くとき掛額に書いて呉れた詞句だ。講習所の娘たちの間に、これを読んで、「丹花の呪禁《ま
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