なろうと試み、木下がさっぱりした性格を好むと思い取っては、男のようになって働きもした。木下は迷ってすることだが、娘はただ懸命につき従おうと心を砕いた。
「結局あの娘の持ち前の性格をくたくたに突き崩して、匂《にお》いのないただ美しい造花のようにしてしまったのは、僕の無言の折檻《せっかん》にあるのでしょう。それとも女というものは、絆《きずな》のある男なら誰に対しても遂《つい》にそうなる運命の生物なのでしょうか」
青年の木下は、それを憐《あわれ》みながら、いよいよ愛する娘を持て剰《あま》した。
「けれども、海は、殊に、南洋の海は……」と木下は言葉を継いだ。「海は、南洋の海は……」現実を夢にし、夢を現実にして呉《く》れる、神変不思議の力を持っている。むかし印度《インド》の哲学詩人たちが、ここには竜宮というものがあって、陸上で生命が屈托《くったく》するときに、しばらく生命はここに匿《かく》れて時期を待つのだといった思想などは、南の海洋に朝夕を送ってみたものでなければ、よく判らないのである。ここへ来ると、生命の外殻の観念的なものが取れて、浪漫性の美と匂いをつけ、人間の嗜味に好もしい姿となって、再び立ち上って来るとかいうのである。
「あなたは東洋の哲学をおやりだという話を、あれの手紙で知りましたが、それなら既にお気付きでしょう。およそ大乗と名付けられる、つまり人間性を積極的に是認した仏教経典等には、かなりその竜宮に匿れていたのを取出して来たという伝説が附ものになっていましょう。その竜宮を、或は錫蘭《セイロン》島だといい、いや、架空の表現なのだとか、いろいろ議論がありますものの、大体北方の哲学の胚種《はいしゅ》が、後世文化の発達した、これ等南の海洋の気を受けた土地に出て来て、伸々と芽を吹き、再生産されたことは推測されましょう」
木下はなお南洋の海に就《つ》いて語り続ける。
遠い水は瑠璃色《るりいろ》にのして、表面はにこ[#「にこ」に傍点]毛が密生しているように白っぽくさえ見える。近くに寄せる浪のうねりは琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の練りもののように、悠揚と伸び上って来ては、そこで青葉の丘のようなポーズをしばらく取り、容易には崩れない。浪間と浪の陰に当るところは、金沙《きんさ》を混ぜた緑礬液《りょくばんえき》のように、毒と思えるほど濃く凝って、しかもきらきら陽光を漉《す》き込んでいる。片帆の力を借りながら、テンポの正規的な汽鑵《きかん》の音を響かせて、木下の乗る三千|噸《トン》の船はこの何とも知れない広大な一鉢の水の上を、無窮に浮き進んで行く。舳《へさき》の斜の行手に浪から立ち騰《のぼ》って、ホースの雨のように、飛魚の群が虹のような色彩に閃《ひら》めいて、繰り返し繰り返し海へ注ぎ落ちる。垣のように水平線をぐるりと取巻いて、立ち騰ってはいつか潰《つい》える雲の峯の、左手に出た形と同じものが、右手に現れたと思うと、元のものはすでに形を変えている。
積荷の塩魚のにおいの間から、ふとすると、寒天や小豆粉のかすかなにおいがする。陸地に近づくと大きな蝶が二つ海の上を渡って来る。
「この絢爛《けんらん》な退屈を何十度となく繰り返しているうち、僕はいつの間にか、娘のことを考えれば、何となく微笑が泛《うか》べられるように悠揚とした気になって来ました。」娘のすることなすことを想像すると、いたいけな気がして、ただ、ほろりとする感じに浸れるだけに彼はなって来た。で、今まで嫌やだと感じる理由になっていた、女嫌いの原因になるものは、どうなったかというと、彼の胸の片隅の方に押し片付けられて、たいして邪魔にもならなくなって来た。いつの間にか人をこうした心状に導くのが南の海の徳性だろうか。
男はここまで語って眉頭《まゆがしら》を衝《つ》き上げ、ちょっと剽軽《ひょうきん》な表情を泛べて、私の顔を見た。
「そこへあなたのご周旋だったので、ありがたくお骨折りを受け容《い》れた次第です」
ここで私は更に男に訊《たず》ねて見なければ承知出来なかった。
「そういうことなら、なぜ娘さんにその気持ちの径路を早く行って聞かさないで、こんな処で私一人に今更打ち明けるのですか」
「ははあ。」といって男は瞑目《めいもく》していたが、やがて尤《もっと》もという様子でいった。
「今までの話、僕はあなたにお目にかかってどうしても聞いて頂き度《た》くなったのですが、これをあの娘に直接話したら……」だんだん判って来たのだが元来あの娘には、そういった女臭いところが比較的少ない。都会の始終|刺戟《しげき》に曝《さ》らされている下町の女の中には、時々ああいう女の性格がある。だが若《も》しそんな話をして、いくらかでも、却《かえ》って母親達のような女臭さをあの娘に植えつけは仕ないだろ
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