たが、心配そうな、狡《ずる》そうな小声で
「あの――註文の――御飯つきのどじょう[#「どじょう」に傍点]汁はまだで――」
 と首を屈《かが》めて訊いた。
 註文を引受けてきた出前持は、多少間の悪い面持で
「お気の毒さまですが、もう看板だったので」
 と言いかけるのを、年長の出前持はぐっと睨《にら》めて顎で指図《さしず》をする。
「正直なとこを言ってやれよ」
 そこで年少の出前持は何分にも、一回、僅かずつの金高が、積り積って百円以上にもなったからは、この際、若干でも入金して貰わないと店でも年末の決算に困ると説明した。
「それに、お帳場も先と違って今はお嬢さんが取締っているんですから」
 すると老人は両手を神経質に擦り合せて
「はあ、そういうことになりましてすかな」
 と小首を傾けていたが
「とにかく、ひどく寒い。一つ入れて頂きましょうかな」
 と言って、表障子をがたがたいわして入って来た。
 小女は座布団を出してはやらないので、冷い籐畳の広いまん中にたった一人坐った老人は寂しげに、そして審《さば》きを待つ罪人のように見えた。着膨れてはいるが、大きな体格はあまり丈夫ではないらしく、左の手を癖にして内懐へ入れ、肋骨《ろっこつ》の辺を押えている。純白になりかけの髪を総髪に撫《な》でつけ、立派な目鼻立ちの、それがあまりに整い過ぎているので薄倖を想わせる顔付きの老人である。その儒者風な顔に引較べて、よれよれの角帯に前垂れを掛け、坐った着物の裾から浅黄《あさぎ》色の股引《ももひき》を覗かしている。コールテンの黒|足袋《たび》を穿《は》いているのまで釣合わない。
 老人は娘のいる窓や店の者に向って、始めのうちは頻《しき》りに世間の不況、自分の職業の彫金の需要されないことなどを鹿爪《しかつめ》らしく述べ、従って勘定も払えなかった言訳を吃々《きつきつ》と述べる。だが、その言訳を強調するために自分の仕事の性質の奇稀性に就《つい》て話を向けて来ると、老人は急に傲然《ごうぜん》として熱を帯びて来る。
 作者はこの老人が此夜《このよ》に限らず時々得意とも慨嘆ともつかない気分の表象としてする仕方話のポーズを茲《ここ》に紹介する。
「わしのやる彫金は、ほかの彫金と違って、片切彫というのでな。一たい彫金というものは、金《かね》で金《かね》を截る術で、なまやさしい芸ではないな。精神の要るもので、毎日どじょう[#「どじょう」に傍点]でも食わにゃ全く続くことではない」
 老人もよく老名工などに有り勝ちな、語る目的より語るそのことにわれを忘れて、どんな場合にでもエゴイスチックに一席の独演をする癖がある。老人が尚《なお》も自分のやる片切彫というものを説明するところを聞くと、元禄の名工、横谷《よこや》宗※[#「王+民」、第3水準1−87−89]《そうみん》、中興の芸であって、剣道で言えば一本勝負であることを得意になって言い出した。
 老人は、左の手に鏨《たがね》を持ち右の手に槌《つち》を持つ形をした。体を定めて、鼻から深く息を吸い、下腹へ力を籠めた。それは単に仕方を示す真似事には過ぎないが、流石《さすが》にぴたりと形は決まった。柔軟性はあるが押せども引けども壊れない自然の原則のようなものが形から感ぜられる。出前持も小女も老人の気配いから引緊められるものがあって、炉から身体を引起した。
 老人は厳かなその形を一度くずして、へへへんと笑った。
「普通の彫金なら、こんなにしても、また、こんなにしても、そりゃ小手先でも彫れるがな」
 今度は、この老人は落語家でもあるように、ほんの二つの手首の捻《ひね》り方と背の屈め方で、鏨と槌を繰る恰好のいぎたなさ[#「いぎたなさ」に傍点]と浅間しさを誇張して相手に受取らせることに巧みであった。出前持も小女もくすくすと笑った。
「しかし、片切彫になりますと――」
 老人は、再び前の堂々たる姿勢に戻った。瞑目した眼を徐《おもむ》ろに開くと、青蓮華のような切れの鋭い眼から濃い瞳はしずかに、斜に注がれた。左の手をぴたりと一ところにとどめ、右の腕を肩の附根から一ぱいに伸して、伸びた腕をそのまま、肩の附根だけで動かして、右の上空より大きな弧を描いて、その槌の拳は、鏨の手の拳に打ち卸される。窓から覗いているくめ子は、嘗《かつ》て学校で見た石膏模造の希臘《ギリシア》彫刻の円盤投げの青年像が、その円盤をさし挟んだ右腕を人間の肉体機構の最極限の度にまでさし伸ばした、その若く引緊った美しい腕をちらりと思い泛《うか》べた。老人の打ち卸す発矢《はっし》とした勢いには、破壊の憎みと創造の歓びとが一つになって絶叫しているようである。その速力には悪魔のものか善神のものか見判《みわ》け難い人間離れのした性質がある。見るものに無限を感じさせる天体の軌道のような弧線を描いて上下する
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